欠食児童
欠食児童(けっしょく じどう)とは、家庭の経済的困窮により、十分に食事を与えられていない子供のことである。
日本では、特に学校へ弁当を持参できず食生活に問題を抱える子供を指して用いられることが多い。また、狭義ではそうであるが、広義に捉えれば、まともな食生活を送れないでいる子供、すなわち「欠食児童」は、洋の東西、過去と現在を問わず、世界に数多く存在し、今後も希望的推測が困難な状況にある。
目次
1 日本の欠食児童
1.1 第二次世界大戦後
2 世界の欠食児童
3 脚注
4 関連項目
日本の欠食児童
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2010年9月) |
第二次世界大戦後
戦後の食糧難は深刻を極め、1945年(昭和20年)の東京の上野駅付近での餓死者は1日平均2.5人で、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者を出した。1947年(昭和22年)には法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官山口良忠が餓死するという事件も起きている。ほどんど全ての食糧を統制物資とした食管制度のもとでは、配給以外の食糧を食べることは即ち違法行為だったのである。しかし一般の人々は、満員列車に乗って農村へと買出しに出かけ、米やサツマイモを背負って帰った。だが、十分な食糧が得られたわけではなかった。また、占領軍の主体となったアメリカにより援助があったものの、食糧不足の解決は難しく配給の遅配が相次ぐ事態となっていた[1]。戦前一部行われていた学校給食も食糧事情悪化のために中断され、そのため食糧を生産していない都市部を中心に、欠食児童は多く存在した。
そのようななか、1946年(昭和21年)からララ物資として、小麦粉(メリケン粉)や砂糖、脱脂粉乳や缶詰といった救援物資が送られ、1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)まではガリオア・エロア資金の資金援助で小麦粉などの食糧が大量に輸入された。この食糧により戦時中中断されていた学校給食が、1946年(昭和21年)12月に、東京都、神奈川県、千葉県で試験的に再開され、1947年(昭和22年)1月から主要都市の児童に学校給食が開始、徐々に全国的に学校給食が再開される。1954年(昭和29年)には学校給食法ができ[2]、高度経済成長を経て日本が名実ともに先進国の仲間入りをして以降は、空腹の子どもたちの存在は忘れられ、欠食児童という言葉は死語となっていた。
ところが、小泉内閣(2001年 - 2006年)の聖域なき構造改革以降、日本社会に格差社会と貧困が再び広がり、家庭で満足な食事が摂れず、長期休暇の期間中は飢えの危険に晒されるような児童が増えている[3]。また、ヤマギシ会の児童が朝食を与えられていないということから同会は批判されている。
世界の欠食児童
世界では、前世紀に引き続いて21世紀初頭(あるいは、2000年代初頭)の現在でも、アフリカを中心に多くの開発途上国で食糧不足の問題が深刻化しており、日本で言うところの「欠食児童」に相当する子供は数多く存在している。特に、ソマリア、スーダン、エチオピアなどの後発開発途上国の食糧不足は深刻である。これらの国々ではほぼ例外なく人口が急増しており、将来の見通しも明るくない。世界から欠食児童がいなくなる日はまだ当分訪れそうにないのが現状である。
また、日本と同様、比較的経済が発展しているにも関わらず、貧困家庭の欠食児童が社会問題となっている国も存在する[4]。
脚注
^ 原田 信男 『和食と日本文化』 小学館、2005年、ISBN 4-09-387609-6、201頁
^ 江原 絢子 他 『日本食物史』 吉川弘文館、2009年、ISBN 978-4-642-08023-1 、313-314頁
^ 空腹の子どもたちを救えるか?貧困家庭に広がる欠食問題
^ 2005年1月11日朝鮮日報報道
関連項目
- 絶対的貧困
- 国際連合児童基金
- 昭和恐慌
- 飯米獲得人民大会
- 米穀配給通帳
- 子ども食堂
- 給食