シベリア抑留




シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソビエト連邦(ソ連)によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。ソ連によって戦後に抑留された日本人は約57万5千人に上る。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万5千人が死亡した[1]


このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであった。ロシアのエリツィン大統領は1993年(平成5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した[2]。ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている[3]




目次






  • 1 背景


  • 2 経緯


    • 2.1 ソ連軍侵攻と停戦


    • 2.2 抑留の決定


      • 2.2.1 関東軍密約説


      • 2.2.2 北海道代償説




    • 2.3 移送


      • 2.3.1 移送先




    • 2.4 収容所での生活


    • 2.5 ハバロフスク裁判


    • 2.6 日本側の対応




  • 3 帰国


    • 3.1 中華人民共和国への移管


    • 3.2 ソ連への残留




  • 4 犠牲者数


  • 5 賃金未払い問題


  • 6 遺骨収集事業


  • 7 現地慰霊碑


    • 7.1 ロシア


    • 7.2 ウズベキスタン共和国


    • 7.3 グルジア共和国




  • 8 被害者・関連団体


  • 9 抑留者による記録


  • 10 ユネスコ記憶遺産


  • 11 シベリア抑留に関連する作品


  • 12 脚注


  • 13 参考文献


  • 14 関連項目


  • 15 外部リンク





背景



ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人に過酷な強制労働が課せられたが、これは労働力不足を補う側面もあった[4]。スターリン体制下の1930年代以降は強制収容所(ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い1934年には囚人の10.56 %が死亡した[5]


スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談でウィンストン・チャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた[6][7]。ヤルタ会談ではかつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された[8]。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は1929年のジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている[9]。これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。特にドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった[10]



経緯



ソ連軍侵攻と停戦


第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。


これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスのヤルタ会談に基づくものであった。当時非公開であったヤルタ秘密協定では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満州においては旅順租借権の回復および大連港や中東鉄道・南満州鉄道に対する優先的権利の認定が記されていた[11]


日本がポツダム宣言を受諾したのち、8月16日には大本営から即時停戦命令が出たため、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王が新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は8月19日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかった[12]



抑留の決定


スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した[13]



関東軍密約説


8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という内容の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」を作成した。この報告書は関東軍参謀・草地貞吾の述懐によると、草地が関東軍総司令官・山田乙三と関東軍総参謀長・秦彦三郎の決定を受けて作成しソ連側に送付したものだという[14]。また同日には「大陸方面二於テハ在留邦人及武裝解除後ノ軍人ハ『ソ』聯 ノ庇護下二滿鮮二土著セシメテ生活ヲ營ム如ク『ソ』聯側二依賴スルヲ可トス」ことを記した「關東軍方面停戰狀況二關スル實狀報告」が作成されソ連側に送付された。ただしこれを作成したという大本営参謀・朝枝繁春本人は、この文書が偽造されたものであると主張している[15]


なおこのソ連軍との停戦交渉時に日本側とソ連側との間で密約が結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかというという疑惑が、全国抑留者補償協議会(全抑協)会長・斎藤六郎や近代史が専門のノンフィクション作家・保阪正康らによって主張されているが、ロシア側はそのような史料を公開していない。またこの交渉に同行した瀬島龍三は、停戦協定を結んだヴァシレフスキーと秦には密約を結ぶ権限はなかったと反論している[16]



北海道代償説


8月16日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」というものであった。しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。このため「北海道の代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、8月23日に決定された「国家防衛委員会決定 No.9898」は非常に細かい内容であり、トルーマンからの回答後に作られたとは考えにくい[17]



移送


占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。


日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1,000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり、絶望したことが伝えられる。また、この時抑留された捕虜の証言によると、ソ連兵はダモイ(帰れるぞ)と叫び、捕虜を貨車に乗せたという。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。


一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある[18]。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている[19]



移送先



  • コムソモリスク・ナ・アムーレ

  • ハバロフスク

  • シベリア

  • ブラーツクダム

  • ナヴォイ劇場

  • タシケント

  • ナホトカ

  • エラブガ


シベリア以外にも、モンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなどソ連の勢力圏全域や中華人民共和国にも送り込まれたという証言があるが、ソ連側の史料が全面提供されないなか、厚生省(現厚生労働省)によってまとめられた地図によれば、ソ連国内70か所をこえる収容所において抑留日本兵が強制労働に従事させられた。[20]日本政府による遺骨収集がソ連国内数か所において許可されているので、その進展にしたがいより正確な収容所拠点、抑留者数、死亡者数が解明されることと期待される。[21]



ファイル:1946年頃以降のソ連・モンゴル(外蒙古)内日本人収容所分布および各地点死亡者発生状況概見図.pdf
ソ連側の史料が全面提供されないなか、厚生省(現厚生労働省)によってまとめられた地図によれば、ソ連国内70か所をこえる収容所において抑留日本兵が強制労働に従事させられた。厚生省作成地図には各地点の抑留日本兵の動員数、死亡者数が含まれるが、地名はカタカナのみで記されてあったため、米国、英国ならびにソ連において発行されたソ連地図を参照し、地名を特定した。 (厚生省援護局。「昭和21年頃におけるソ連・外蒙領内日本人収容所分布概見図」『引揚げと援護三十年の歩み』厚生省。1976年。p56。厚生省社会・援護局50年史編纂委員会。「ソ連邦・モンゴル(外蒙古)内各地点死亡者発生状況概見図」『援護50年史』。ぎょうせい。1997年。pp524-525。 A)Union of Soviet Socialist Republic. Compiled and drawn in the Cartographic Section of the National Geographic Society for the National Geographic Magazine. Grovesnor, Gilbert. Ed. Washington. U.S.A. 1944. B)U.S.S.R.and Adjacent Areas 1:8,000,000. Published by Department of Survey, Ministry of Defense, United Kingdom. British Crown Copyright Reserved Series 5104. U.K. 1964. C)USSR Railways. J.R. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. U. K. 1973. D)USSR Railways. J.R. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. U.K. 1976. E)Soviet Union. Produced by the Cartographic Division. National Geographic Society. National Geographic Magazine. Grovesnor, Melville B. Ed. Washington. U.S.A. 1976. F)Union of Soviet Socialist Republic. Moscow News Supplement. Main Administration of Geodesy and Cartography under the Council of Minister of the USSR. U.S.S.R. 1979.)



収容所での生活


シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した[22](犠牲者数に関しては後述)。


一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。新聞として「日本しんぶん」が発行された。
「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった。また日本共産党委員長志位和夫の伯父志位正二などソ連のスパイとなり、戦後日本で諜報活動を行った者もいる[23]


共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、「反ソ分子」の執拗な吊し上げや露骨な暴行を行った[24]。彼らは捕虜達からシベリア天皇と呼ばれた。有名な者には浅原正基[25]、袴田陸奥男[26][27]がいる。また、抑留中に起きた事件として「暁に祈る」事件がある。


共産主義の労働ノルマに対する報酬、資本主義との違いゆえ、捕虜達の中にはストライキを起こした例もある[28]



ハバロフスク裁判



1949年12月に戦犯裁判としてハバロフスク裁判が行われ、関東軍司令官の山田乙三や731部隊が裁かれた。ボンダレンコはこのハバロフスク裁判について国際法違反だと述べている[29]



日本側の対応



1945年(昭和20年)11月になって日本政府は関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。1946年(昭和21年)5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。


1952年(昭和27年)に緑風会の高良とみが収容所を訪問した。このとき健康な者は営外作業に出され、重症患者は別の病院に移されるなどの収容所側による工作が行われ、高良の「他の収容者はどうしたのか」との問いに対し、所長は「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と平然と応えている[30]


1955年(昭和30年)に当時ソ連と親しい関係にあった社会党左派の国会議員らによる収容所の視察が行われた。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、調理場の鍋にあったカーシャを味見した戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな臭い粥を、毎日食べておられるのですか」と漏らしたという。過酷な状況で強制労働をさせられていた収容者らは決死の覚悟で収容所の現状を伝えたが、その訴えも虚しく視察団は託された手紙を握りつぶし、記者会見や国会での報告で「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」などと虚偽の説明を行った。元収容者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、視察団団長の野溝勝らは海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会で追及を受けている[31][32]



帰国


1947年(昭和22年)から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。


1950年(昭和25年)には、一部の引揚者の帰国が遅れたのは日本共産党書記長徳田球一の要請として、国会で問われた徳田要請問題が起こった。



中華人民共和国への移管



最長11年抑留された者も居れば、日本に帰国すれば共産主義を広める活動をすると収容所でソ連側に誓い念書し、早期に帰国した念書組と呼ばれる者、満洲国皇帝であった愛新覚羅溥儀やその弟愛新覚羅溥傑、満洲国国務総理であった張景恵など満州国の要人らと共に1950年代に中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所などに収容される者もおり、洗脳による「改造」教育が行われた[33]



ソ連への残留



また、ソ連当局の勧誘を受け民主運動に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地の人間と恋仲になった(ロシアの英字紙、シベリアン・タイムズによると、元日本兵が現地のロシア人女性と結婚するのは珍しいことではなく、クラスノヤルスク地方のカンスクでは50人の元日本兵がロシア人女性と結婚したと言われている[34])、などで帰国せずにソ連に残留して帰化した例(川越史郎など)もある[35]。ソ連にとどまった総数は約1,000人とみられ、2017年(平成29年)時点でもロシア北西部レニングラード州に、満州国軍元軍曹で北海道出身の田中明男が存命であることが明らかになった。田中の回想によると、1950年代に入って抑留者の日本帰国が本格化すると、収容所幹部が「末端の兵士以外は、帰国すれば裏切り者として迫害(抑圧)される」と残留を勧めるようになり、信じて残留を決めた者もいたという[36][37]



犠牲者数


ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[38]。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという[39]


シベリア抑留中にソ連の軍事法廷で日本人144人が銃殺刑の判決を受けたことが判明しており、うち33人への執行が確認されている(79人のその後は不明)[40][41]


日本の厚生労働省は2017年(平成29年)現在でも、ロシア連邦などから提供された資料を基に、旧ソ連や満州で死亡して新たに判明した日本人の氏名などの名簿更新を続けている[42]



賃金未払い問題


国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金と、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっており、この慣習はハーグ陸戦条約などで確認されているが、日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対していた[43]


国家賠償訴訟





シベリア抑留を巡っては、日本全国で4件の国家賠償訴訟が行われている。このうち、京都地裁では2009年(平成21年)10月28日に、「国による遺棄行為は認められない」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された[44]


シベリア特措法

旧ソ連、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し、1人25万から最高150万円を一時金として支給する、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」が、2010年(平成22年)5月21日に本会議で可決。法案は抑留された期間に応じて、元抑留者を5段階に分類。独立行政法人「平和祈念事業特別基金」の約200億円を財源に支給される[45][46]



遺骨収集事業


冷戦終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現・厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、遺骨収集事業が進められ、遺骨のDNA型鑑定などによって2010年(平成22年)までに約828名の身元が特定され、遺族に引き渡された[47]



現地慰霊碑



厚生労働省の事業により、抑留された各地に小規模な慰霊碑の建立が進められている。



ロシア




  • エラブガ(2000年)


  • クラスノヤルスク (2000年)


  • チェルノゴルスク(2001年)


  • ニジニ・タギル(2001年)


  • ケメロボ(2006年)


  • ノボシビルスク(2007年)


  • ビイスク(2007年)


  • オレンブルグ(2008年)


  • アルチョーム(2010年)



ウズベキスタン共和国



  • タシケント(2003年)


グルジア共和国



  • トビリシ(2010年)


被害者・関連団体




  • 全国抑留者補償協議会(全抑協 1979年結成、シベリア特措法成立と会員の高齢化により2011年5月解散)

  • 近畿地区シベリア抑留者未払い賃金要求の会

  • 財団法人全国強制抑留者協会



抑留者による記録


当事者による手記(小説は除く)



  • 石原吉郎『望郷と海 』、(1997年、筑摩書房) ISBN 9784480083593

  • 伊藤政夫『マホルカ - シベリア抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835539515

  • 井戸邊正則『シベリヤヤポンスキーサルダート』(2007年、文芸社) ISBN 9784286032665


  • 乾常美『捕虜の文化』(所収『捕虜体験記(3)ウラル以西篇』ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会編、平文社、1984年(初版)、1998年(重版))

  • 井上三次郎『地獄のシベリア抑留記』(2010年、文芸社) ISBN 4286085600

  • 今川順夫『私のシベリア抑留 地獄の記録 - 負けてたまるかの奮闘記』(2011年、岐阜新聞社) ISBN 9784877971663※品切れ


  • 内村剛介『生き急ぐ:スターリン獄の日本人』(1967年、講談社 / 講談社文芸文庫) ISBN 4061982605※品切れ


  • 宇野宗佑『ダモイ・トウキョウ』(1982年、シベリア抑留叢書)※品切れ

  • 蝦名熊夫著・蝦名賢造編纂『シベリア捕虜収容所 四年間の断想 死の家の記録』(1989年、西田書店)※品切れ

  • 大塚茂『ダモイの道は遠かった』(1995年、国書刊行会) ISBN 9784336037282)※品切れ

  • 小川護『私のシベリヤ物語 - 捕虜生活三年間の青春』(2011年、光人社NF文庫) ISBN 4769827121

  • 川越史郎『ロシア国籍日本人の記録 - シベリア抑留からソ連邦崩壊後まで』(1994年、中公新書) ISBN 4121011732※品切れ

  • 川島一芳『シベリア抑留の軌跡 - 私にとっての戦争』(2000年、文芸社) ISBN 9784835501543

  • 川堀耕平『カラガンダ第八分所 - 中央アジア抑留記』(2008年、溪水社) ISBN 9784863270190※品切れ


  • 草地貞吾『地獄遍路』(1958年、日刊労働通信社シベリヤ叢書)※品切れ

  • 後藤治夫『シベリア抑留記 - 奥三河の山里から』(2005年、春風社) ISBN 9784861100543

  • 後藤敏雄『シベリア、ウクライナ私の捕虜記』(1985年、国書刊行会) ISBN 9784336022516

  • 斎藤邦雄『シベリヤ抑留兵よもやま物語 - 極寒凍土を生きぬいた日本兵』(1987年、光人社NF文庫) ISBN 9784769825067

  • 坂間文子『雪原にひとり囚われて - シベリア抑留10年の記録』(1975年、講談社)※品切れ

  • 佐藤千一『シベリアさすらいの記 一抑留兵の体験記』(1993年、日本図書刊行会) ISBN 978-4773317688※品切れ

  • 佐藤友治『朝が来て知る捕虜の命 - シベリア抑留生活千余日』(2002年、文芸社) ISBN 9784835543055

  • 佐野巌『シベリア抑留1000日 - ある日系二世の体験記』(1999年、彩流社) ISBN 9784882025955

  • 信田守夫『シベリア捕虜紀行』(2006年、文芸社) ISBN 9784286011295※品切れ

  • 新宮富士郎『大陸の孤島 - シベリア抑留記』(2008年、文芸社) ISBN 9784286041711※品切れ

  • 杉本四郎『シベリア抑留の思い出記』(2011年、文芸社) ISBN 9784286100517※品切れ

  • 鈴木祥蔵『シベリア捕虜収容所「ラーゲル」の中の青春 - 一学徒兵五十五年目の回想』(1999年、明石書店)

  • 鈴木良男『遥か青春シベリア』(1995年、共和印刷企画センター)※品切れ

  • 宗前鉄男『北斗の下で - 私のシベリア物語』(2010年、東京図書出版会) ISBN 9784862233981


  • 高木啓太郎『シベリア抑留記 お陽さんぽつんと赤かった』(1983年、サン文庫)※品切れ


  • 高杉一郎『極光のかげに - シベリア俘虜記』(1950年、岩波文庫) ISBN 4003318315

  • 竹田正直『酷寒シベリヤ抑留記 - 黒パン三五〇グラムの青春』(2001年、光人社NF文庫) ISBN 9784769823063

  • 棚橋嘉信『東京ダモイ - 日本に帰る』(1997年、日本図書刊行会) ISBN 9784890391844

  • 中村信一『ウラジオストック物語 - シベリア抑留体験記』(2004年、新風舎) ISBN 9784797442854※品切れ

  • 西尾康人『凍土の詩 - シベリア抑留八年、爪で書いた記録』(1995年、早稲田出版) ISBN 9784898271636※品切れ

  • 西本諦了『命めぐまれ、今を生きる - シベリア・ウクライナ抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835533100※品切れ

  • 新田直人『シベリアの歌 - 続シベリア抑留体験記』(1987年、シベリア抑留者友の会) ISBN 9784897500225※品切れ

  • 萩原金八『俘虜記 - シベリアの詩』(2004年、文芸社) ISBN 9784835570037

  • 古川和夫『試練の八年間 - シベリア抑留』(2008年、文芸社) ISBN 9784286039954

  • 穂苅甲子男『シベリア俘虜記 - 兵士の過酷なる抑留体験』(2009年、光人社NF文庫) ISBN 9784769826200

  • 松井功『青春を埋めた初年兵の抑留記』(1995年、近代文芸社) ISBN 9784773347623

  • 三浦庸『シベリヤ抑留記 - 一農民兵士の収容所記録』(1984年、ちくま文庫) ISBN 978-4480024824※品切れ

  • 皆川太郎『ダモイ - シベリアからの帰還』(2006年、光陽出版社) ISBN 9784876624201

  • 村山常雄『シベリアに逝きし人々を刻す ソ連抑留中死亡者名簿』(2007年、プロスパー企画) ISBN 9784861800214※品切れ

  • 村山常雄『シベリアに逝きし46300名を刻む ソ連抑留死亡者名簿をつくる』(2009年、七つ森書館) ISBN 9784822809966

  • 森野勝五郎著・森野忠編纂『遺稿 我が抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835535661

  • 森本良夫『シベリア俘虜記 - 死と絶望からの帰還』(2001年、春秋社) ISBN 9784393436202※品切れ

  • 山川速水『ラーゲルの軍医 - シベリア捕虜記』(1984年、北風書房) ISBN 4795232245

  • 山下静夫『画文集 シベリア抑留1450日・記憶のフィルムを再現する』(2007年、デジプロ) ISBN 9784490206135

  • 山本喜代四『シベリヤ抑留記 - 21世紀を拓く青少年たちへの伝言』(1999年、元就出版社) ISBN 9784906631445

  • 勇崎作衛『画文集 キャンバスに蘇るシベリアの命』(2010年、創美社) ISBN 9784420310444

  • 渡邉雅彬『ダモイの虹』(2004年、新風舎 / 2009年、文芸社) ISBN 9784286072555


  • 與田純次 他多数『シベリア慰霊訪問記』(1994年、1997年、1998年、全国強制抑留者協会)



ユネスコ記憶遺産




白樺日誌(シベリア抑留者が白樺の皮に書いた日誌・舞鶴引揚記念館)


「ユネスコ記憶遺産」に、舞鶴引揚記念館に収蔵するシベリア抑留と引揚関係資料『舞鶴への生還 1945-1956 シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録』が、2015年(平成27年)10月10日に登録された[48] 。舞鶴引揚記念館資料寄贈者の木内信夫、安田清一は日本初の生存作家となった。



シベリア抑留に関連する作品


小説



  • ソルジェニーツィン『収容所群島』


  • 相沢英之『タタァルの森から』(1992年、米子今井書店) ISBN 9784896780130※品切れ


  • 井上ひさし『一週間』(2010年、新潮社) ISBN 9784103023302


  • 鏑木蓮『東京ダモイ』(2006年、講談社 / 講談社文庫)第52回江戸川乱歩賞 ISBN 9784062764407


  • 胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』(1983年、文藝春秋 / 文春文庫)第89回直木賞 ISBN 9784167402013※品切れ

  • 村尾靖子『クラウディア 奇蹟の愛』(2003年、海拓舎) ISBN 9784907727314※テレビドラマ『遙かなる約束』および戯曲『クラウディアからの手紙』の原案。ノンフィクション

  • 村尾靖子『クラウディアの祈り』(2009年、ポプラ社) ISBN 9784591108536


  • 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(1994年 - 1995年、新潮社 / 新潮文庫)


  • 山崎豊子『不毛地帯』(1976年 - 1978年、新潮社 / 新潮文庫) ISBN 9784101104409


絵本


  • 井上こみち『氷の海を追ってきたクロ』(2010年、学習研究社) ISBN 4052032810

  • 神津良子・北野美子『氷海のクロ - シベリア抑留(語り継ぐ戦争絵本シリーズ)』(2011年、郷土出版社) ISBN 4863751117

  • 村尾靖子・小林豊『クラウディアのいのり』(2008年、ポプラ社) ISBN 9784591104071


戯曲



  • 浅利慶太『ミュージカル異国の丘』(劇団四季)


  • まきりか『音楽劇君よ生きて』

  • 鐘下辰男『クラウディアからの手紙』


漫画



  • おざわゆき『凍りの掌』(2012年、小池書院) ISBN 9784862258311 - 著者が実父のシベリア抑留体験を基に執筆


  • 滝沢聖峰『幻の豹 The panther in Ukraina 1950』(1995年、大日本絵画) ISBN 9784499226479


  • 本宮ひろ志『国が燃える』(2003年 - 2006年、集英社・ヤングジャンプコミックス) - 主人公の本多勇介が抑留された。※品切れ


歌曲


  • 『異国の丘』(1948年、作詞:増田幸治、補詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、歌:竹山逸郎、中村耕造など)

  • 『岸壁の母』(1954年・1972年、作詞:藤田まさと、作曲:平川浪竜、歌:菊池章子、二葉百合子など)


映画


  • 『異国の丘』(1949年、制作:新東宝、脚本:渡辺邦男・北沢誠、監督:渡辺邦男)出演:花井蘭子・上原謙・大日方伝

  • 『帰国(ダモイ)』(1949年、制作:東宝・佐藤一郎、脚本:岸松雄、監督:佐藤武)出演:堀雄二・池部良・藤田進・山口淑子

  • 『私はシベリヤの捕虜だった』(1952年、制作:東宝、脚本:沢村勉、監督:阿部豊・志村敏夫)出演:北沢彪・土屋嘉男

  • 『岸壁の母』(1976年、制作:東宝、脚本:村尾昭、監督:大森健次郎、原作:端野いせ)出演:中村玉緒・江藤潤


テレビドラマ


  • 『岸壁の母 (テレビドラマ)』(1977年、TBS / 松竹)出演:市原悦子・大和田獏

  • 『遥かなる約束 〜50年の時を越えた運命の愛〜』(2006年、フジテレビ)主演:阿部寛・黒木瞳


その他

  • 太田三郎 (芸術家)


脚注





  1. ^ シベリア抑留の労苦 阿見 絵画や物品展示茨城新聞、2018年2月5日


  2. ^ “衆議院議員鈴木宗男君提出エリツィン前ロシア大統領の逝去に関する質問に対する答弁書”. 衆議院 (2007年5月11日). 2011年8月7日閲覧。


  3. ^ “シベリア抑留は「歪曲」 記憶遺産でロシア”. 日本経済新聞. (2015年10月23日). http://www.nikkei.com/article/DGXLAS0040008_T21C15A0000000/ 2016年8月23日閲覧。 


  4. ^ 村井淳 2010, pp. 118.


  5. ^ 村井淳 2010, pp. 121.


  6. ^ 白井久也 1994, pp. 37.


  7. ^ 戸松建二 2009, pp. 182.


  8. ^ ライナー・ホフマン 訳山手治之 (2005年). “戦争被害者に対する補償――1949年以降のドイツの実行と現在の展開――”. 立命館法学. 2012年4月8日閲覧。、299p


  9. ^ 村井淳 2010, pp. 130.


  10. ^ 村井淳 2010, pp. 132.


  11. ^ 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集 (PDF) (日本国外務省・ロシア連邦外務省編、1992年)p.24 「ヤルタ協定」


  12. ^ 白井久也 1994, pp. 34-35.


  13. ^ 戸松建二 2009, pp. 132.


  14. ^ 白井久也 1994, pp. 35.


  15. ^ 白井久也 1994, pp. 36.


  16. ^ 瀬島龍三『日本の証言』フジテレビ出版


  17. ^ 戸松建二 2009, pp. 176.


  18. ^ V.A.アルハンゲリスキーの著作およびマッカーサー元帥の統計より


  19. ^ シベリア抑留、露に76万人分の資料 軍事公文書館でカード発見[リンク切れ]産経新聞 2009年7月24日


  20. ^ 厚生省援護局。「昭和21年頃におけるソ連・外蒙領内日本人収容所分布概見図」『引揚げと援護三十年の歩み』厚生省。1976年。p56。厚生省社会・援護局50年史編纂委員会。「ソ連邦・モンゴル(外蒙古)内各地点死亡者発生状況概見図」『援護50年史』。ぎょうせい。1997年。p-524-525。A)Union of Soviet Socialist Republic. Compiled and drawn in the Cartographic Section of the National Geographic Society for the National Geographic Magazine. Grovesnor, Gilbert. Ed. Washington. U.S.A. 1944. B)U.S.S.R.and Adjacent Areas 1:8,000,000. Published by Department of Survey, Ministry of Defense, United Kingdom. British Crown Copyright Reserved Series 5104. U.K. 1964. C)USSR Railways. J.R. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. U. K. 1973. D)USSR Railways. J.R. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. U.K. 1976. E)Soviet Union. Produced by the Cartographic Division. National Geographic Society. National Geographic Magazine. Grovesnor, Melville B. Ed. Washington. U.S.A. 1976. F)Union of Soviet Socialist Republic. Moscow News Supplement. Main Administration of Geodesy and Cartography under the Council of Minister of the USSR. U.S.S.R. 1979.


  21. ^ シベリア抑留中死亡者に関する資料の調査について」 厚生労働省政策レポート。2009年。http://www.mhlw.go.jp/seisaku/2009/11/01.html


  22. ^ 当初から10万名は死亡したと言われ、グラスノスチ後に発見された資料によると40万人とも言われる。


  23. ^ 加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社〈平凡社新書〉、2014年、p.128


  24. ^ 高杉一郎 『極光のかげに―シベリア俘虜記』.西川伸一 『もうひとつの世界へ』第14号(2008年4月) 58頁


  25. ^ ウイリアム・F・ニンモ著、加藤隆訳『検証―シベリア抑留』(時事通信社 1991年))


  26. ^ 「シベリア天皇の全告白」文芸春秋 69(5), p140-147, 1991-04


  27. ^ 寺田新次郎「抑留所感」シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦(抑留編) 第12巻
    吉田幸平 『シベリア捕虜の思想戦―日本人相剋の悲劇』 中日出版社、2008年. 佐々木芳勝『流転の旅路 : シベリア抑留記』2000.



  28. ^ 小峰国保 『シベリア抑留記』 創栄出版 2003年 pp.99 - 100.不当に仕事量を増やされていたことが発覚し、待遇は後に改善されたと記す。


  29. ^ Е.Ю. Бондаренко. «Судьбы пленных: Токийский и Хабаровский международные процессы над японскими военными преступниками и их последствия». Россия и АТР. 1993, No.1.小林昭菜「「シベリア抑留」研究の現状と課題」異文化 論文編 (11), 267-285, 2010-04 法政大学国際文化学部


  30. ^ 稲垣武、1997年、78-79頁。 


  31. ^ 稲垣武、1997年、78-84頁。 


  32. ^ “第024回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第6号”. 国会会議録検索システム (1956年2月23日). 2017年5月6日閲覧。


  33. ^ Hunter, Edward (1951). Brain-washing in Red China: the calculated destruction of men’s minds. New York: Vanguard Press.日本語訳:エドワード・ハンター、福田実訳『洗脳 中共の心理戦争を解剖する』法政大学出版局、1953年。Hunter, Edward(1956),BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it,Ambassador Books, Ltd., Toronto. Robert Jay Lifton,Thought Reform and the Psychology of Totalism: A Study of "Brainwashing" in China. New York: Norton. 1961.(オンライン,邦訳ロバート・J・リフトン『思想改造の心理―中国における洗脳の研究』 誠信書房 1979.上杉千年「拝啓 広島県教育委員会殿 第5弾「広島解放区」にうごめく教員組合と校長会」正論1999年4月号.安藤裕子「和解の記憶の欠落 ―戦後日本における「認罪」の表象―」『アジア太平洋討究』No. 25,2015年


  34. ^ “...yet still they remember times spent in Siberia with nostalgia”. Siberian Times (2013年5月24日). 2018年4月6日閲覧。


  35. ^ 川越史郎。『ロシア国籍日本人の記録 シベリア抑留からソ連崩壊まで』(中央公論社 中公新書)


  36. ^ “シベリア抑留 露に生存者/北海道出身の89歳”. 『毎日新聞』朝刊 (毎日新聞社). (2017年6月5日). https://mainichi.jp/articles/20170605/k00/00m/040/100000c 2017年6月6日閲覧。 


  37. ^ “シベリア抑留 未完の望郷”. 『日本経済新聞』夕刊 (日本経済新聞社). (2017年6月20日). http://www.nikkei.com/article/DGKKZO17870100Q7A620C1EAC000/ 2017年6月28日閲覧。 


  38. ^ “「旧ソ連邦抑留中死亡者名簿」に係る未提供資料の提供を求めるためのロシア政府への情報提供について”. 厚生労働省 (2009年3月6日). 2009年7月27日閲覧。


  39. ^ ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』


  40. ^ “シベリア抑留中に銃殺刑判決、114人判明 研究者調査:朝日新聞デジタル” (日本語). 朝日新聞デジタル. https://www.asahi.com/articles/ASL49574RL49UTFK017.html 2018年4月10日閲覧。 


  41. ^ “銃殺判決の抑留114人を発表 旧ソ連、研究者がリスト作成 - 共同通信” (日本語). https://this.kiji.is/356008220218672225 2018年4月10日閲覧。 


  42. ^ “~ロシア連邦政府等から提供された抑留者に関する資料について~資料の一覧や死亡者名簿が閲覧できます”. 厚生労働省ホームページ. 2017年8月8日閲覧。


  43. ^ 白井久也 1994, pp. 40-41.


  44. ^ シベリア抑留国賠訴訟:抑留者の賠償請求を棄却--京都地裁[リンク切れ]毎日新聞2009年10月29日


  45. ^ 2010年(平成22年)5月20日に参院総務委員会で佐藤泰介委員長により提案。シベリア特措法:超党派で今月国会提出へ 元抑留者の悲願に光毎日jp 2010年5月20日


  46. ^ 特措法、全会一致で提出シベリア抑留で給付金 京都新聞2010年5月20日


  47. ^ “シベリア抑留死:没後66年 遺骨、兵庫の遺族の元に”. 毎日新聞. (2012年2月2日). http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120202k0000e040111000c.html 2012年2月8日閲覧。 


  48. ^ 舞鶴市ホームページ舞鶴引揚記念館収蔵資料がユネスコ世界記憶遺産に登録されました




参考文献



  • 村井淳「ソ連における強制労働と建設 : 囚人と捕虜は、どのように労働利用されたか」、『研究論集』第91巻、関西外国語大学、2010年、 117-135頁、 NAID 110007531511。

  • 戸松建二「第二次大戦後における日本兵シベリア抑留問題 : 収容所における「民主化政策」をめぐって」、『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』第10巻、愛知県立大学、2009年、 171-206頁、 NAID 110007326001。

  • 白井久也「国際法から見た日本人捕虜のシベリア抑留」、『ロシア・東欧学会年報』第23巻、東海大学平和戦略国際研究所、1994年、 33-42頁。


  • 阿部軍治『シベリア強制抑留の実態 - 日ソ両国資料からの検証』(2005年、彩流社) ISBN 9784779111068

  • 阿部軍治『慟哭のシベリア抑留 - 抑留者たちの無念を想う』(2010年、彩流社) ISBN 9784779115738

  • 石崎誠一『シベリア抑留者 - 大統領の謝罪と抑留問題の決着』(1997年、全貌社) ISBN 4793801463※品切れ

  • 独活章『クロ物語 - 氷海に飛び込んだ犬』(2005年、けやき出版) ISBN 4877512942


  • 御田重宝『シベリア抑留』(1991年、講談社文庫) ISBN 9784061849402※品切れ

  • エレーナ・カタソノワ『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたのか』(2004年、社会評論社) ISBN 9784784513109

  • 亀井励『シベリア抑留者と遺族はいま』(1992年、かもがわ出版) ISBN 9784876990672※品切れ

  • ヴィクトル・カルポフ『スターリンの捕虜たち - シベリア抑留』(2001年、北海道新聞社) ISBN 9784894531352※品切れ

  • 栗原俊雄『シベリア抑留 - 未完の悲劇』(2009年、岩波新書) ISBN 9784004312079

  • 栗原俊雄『シベリア抑留は「過去」なのか』(2011年、岩波ブックレット) ISBN 4002708047

  • 坂本龍彦『シベリア虜囚半世紀 - 民間人 蜂谷弥三郎の記録』(1998年、恒文社) ISBN 9784770409768※品切れ

  • 白井久也『ドキュメント シベリア抑留 - 斎藤六郎の軌跡』(1995年、岩波書店) ISBN 4000029541※品切れ

  • 白井久也・佐藤清『写真集 シベリア抑留 - 歴史の流れの中で』(1997年、ヒューマン社) ISBN 9784894611016※品切れ

  • 白井久也『検証 シベリア抑留』(2010年、平凡社新書) ISBN 9784582855159


  • 嶌信彦『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』(2015年、角川書店) ISBN 9784041035375


  • 立花隆『シベリア鎮魂歌 - 香月泰男の世界』(2004年、文藝春秋) ISBN 4163657509

  • 長澤淑夫『シベリア抑留と戦後日本 - 帰還者たちの闘い』(2011年、有志舎) ISBN 4903426491

  • 中村紀雄『シベリア強制抑留 - 望郷の叫び』(2005年、上毛新聞社出版局) ISBN 9784880589312※品切れ

  • ウィリアム・F・ニンモ『検証 - シベリア抑留』(1991年、時事通信社) ISBN 9784788791060※品切れ

  • 畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか - 詩人・石原吉郎のみちのり』(2009年、岩波ジュニア新書) ISBN 9784005006182


  • 辺見じゅん『収容所から来た遺書』(1989年、文春文庫)講談社ノンフィクション賞・大宅壮一ノンフィクション賞 ISBN 9784167342036

  • 辺見じゅん『ダモイ 遥かに』(2008年、メディアパル) ISBN 9784896100839

  • 松本宏『告発 シベリア抑留 - 国民に隠された真相』(2004年、碧天舎) ISBN 4883465012※品切れ

  • 若槻泰雄『シベリア捕虜収容所』(1999年、明石書店) ISBN 9784750311807


  • 稲垣武 『「悪魔祓い」の戦後史』 (第1版) 文藝春秋〈文集文庫〉、1997年。ISBN 4041040035。 



関連項目










外部リンク



  • ウクライナ人捕虜から見た日本人捕虜

  • 厚生労働省:〜ソ連邦及びモンゴル抑留死亡者名簿〜

  • シベリア抑留死亡者名簿(村山常雄によるもの)

  • 旧ソ連抑留画集

  • ソ連地域の引揚経緯表

  • 収容所から来た遺書 山本幡男




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