紀元前237年
世紀 | 前4世紀 - 前3世紀 - 前2世紀 |
---|---|
十年紀 | 前250年代 前240年代 前230年代 前220年代 前210年代 |
年 | 前240年 前239年 前238年 紀元前237年 前236年 前235年 前234年 |
紀元前237年は、ローマ暦の年である。
当時は、「ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌスとクィントゥス・フルウィウス・フラックスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元517年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前237年と表記されるのが一般的となった。
目次
1 他の紀年法
2 できごと
2.1 カルタゴ
2.2 中国
3 誕生
4 死去
5 脚注
6 関連項目
他の紀年法
干支 : 甲子
日本
皇紀424年
孝霊天皇54年
中国
秦 - 始皇10年
楚 - 幽王元年
斉 - 斉王建28年
燕 - 燕王喜18年
趙 - 悼襄王8年
魏 - 景湣王6年
韓 - 韓王安2年
朝鮮 :
ベトナム :
仏滅紀元 : 310年
ユダヤ暦 :
できごと
カルタゴ
ハミルカル・バルカが敵の傭兵をうち破ったことで、カルタゴ内での政治的地位が上昇し、イベリア半島の侵略を推進しようとした。しかし、地主への広報者である大ハンノはこの侵略政策に反対した。- それにも関わらず、ハミルカル・バルカは共和政ローマとの戦争を再開できる拠点を作る目的で、イベリア半島に軍を向けた。ハミルカルは、類稀な統率力と外交力で、カルタゴの支配権を多くのスペインの部族に広げた。
中国
秦の相国の呂不韋が前年の嫪毐の事件に連座して罷免された。
斉と趙が秦に来朝し、酒宴が開かれた。- 秦王政が斉人の茅焦の進言を容れて、母の太后を雍から迎えて咸陽に入れ、再び甘泉宮に住まわせた。
- 秦で他国人の追放令(逐客令)が出された。李斯は、手紙を秦王政に出して追放令の撤回を求めた。この「諫逐客書」は実に理路整然とした名文で、後に文選にも収録されているほどである。政もこの名文に説得されて追放令の撤回を決めた。
誕生
「Category:紀元前237年生」も参照
死去
「Category:紀元前237年没」も参照
荀子 - 儒教の哲学者の一人(紀元前310年生)
脚注
注釈
出典
関連項目
- 年の一覧
- 年表
- 年表一覧
|