日本選手権競輪
概要 | |
---|---|
開催時期 | 4-5月(2016年度から) |
開催地域 | 持ち回り |
愛称 | 競輪ダービー |
分野 | 競輪 |
カテゴリー | GI |
形態 | 6日間トーナメント |
主催者 | 持ち回り |
歴史 | |
初回開催年 | 1949年 |
開催回数 | 72回(2018年) |
初代優勝者 | 横田隆雄(甲、乙規格とも) |
最多優勝者 | 吉岡稔真・村上義弘(4回) |
直近優勝者 | 三谷竜生(2018年) |
日本選手権競輪(にほんせんしゅけんけいりん・にっぽんせんしゅけんけいりん)は毎年4月下旬から5月上旬頃の6日間に渡って開かれる競輪のGI競走である。
正賞は内閣総理大臣賞、衆議院議長賞、経済産業大臣賞、主催者市長賞、主催者市議会議長賞、全国競輪施行者協議会会長賞、JKA会長賞、自転車競技会全国協議会会長賞、日本競輪選手会理事長賞、全国競輪場施設協会会長賞、日本自転車競技会会長賞。
目次
1 概要
1.1 賞金
2 歴史
3 出場選手選抜方法
4 勝ち上がり方式
4.1 途中帰郷
5 過去の優勝者
5.1 女子優勝者
6 今後の開催予定
7 エピソード
7.1 数々の開催危機
7.2 データ
8 決勝戦テレビ中継
9 脚注
10 外部リンク
概要
競輪のグレード制導入によりKEIRINグランプリは企画物として別格・最上位(GP)とされたため本競走はそれに次ぐGIレースの一つとされた。
しかしGPの格はグランプリのみであり、同列とされたGI競走の中でも、その歴史・正賞として授与される内閣総理大臣賞及びその他の各賞・名誉及び賞金額において競輪競技で最高の格式を誇るレース(事実上春の競輪実力日本一決定戦)である。競馬で最高の競走であるダービーになぞらえ、『競輪ダービー』の通称で古くから呼ばれ、親しまれている。
優勝賞金は第59回大会(2006年)より6,600万円(副賞込み[1])であったが、第65回大会(2012年)では東日本大震災を受けての被災地支援競輪において収益拠出額を増加させる方針から6,400万円(副賞込み)へと減額された。第66回大会(2013年)からは6,000万円(副賞込み)となっていたが、第69回大会(2016年3月)では6,500万円(副賞込み)へと再び増額されている。この優勝賞金6,500万円は、数あるGIレースの中で最高額となっている。
また、GIレースの殆どが4 - 5日間開催に短縮された中で、この日本選手権競輪(以下ダービー)だけは唯一6日間で開催され続けている(競輪祭が2018年より6日間開催を復活)。開催時期は、2008年までは3月の中旬から下旬にかけて開催されていたが、2009年より2012年までは2 - 3週間繰り上げられ3月上旬の開催であった。しかし2013年からは全日本選抜競輪が2月の開催となったこともあり、再び3月中旬から下旬の日程に戻った。その後、売り上げ増を見込んでゴールデンウィーク期間中にGIレースを開催する方針を立てたことから、この日本選手権競輪を2016年度以降は5月開催とすることが決定したため、2016年に関しては例外的に3月上旬から中旬と4月末から5月上旬とで計2回開催が行われた(このうち3月開催は2015年度扱い)。
賞金
以下は、決勝戦における各着順の賞金額。( )内は副賞(1〜3着に授与)を含んだ金額。
大会(年) | 1着 | 2着 | 3着 | 4着 | 5着 | 6着 | 7着 | 8着 | 9着 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第72回(2018年)[2] | 5,800万円(6,500万円[3]) | 2,850万円(2,920万円[3]) | 1,950万円(1,990万円[3]) | 1,390万円 | 1,100万円 | 890万円 | 740万円 | 640万円 | 600万円 |
歴史
第1回は1949年に大阪住之江競輪場(現在の住之江公園)で「全国争覇競輪(ぜんこくそうはけいりん)」と題して(当初第7回までは春秋の年2回)開催された。全国争覇戦時代は女子の部や実用車・軽快車(何れも一般の自転車)を使ったレースも実施された。この「全国争覇競輪」の名称は第16回(1963年)まで採用され、第17回(1964年)から現在の名称となった。
第21回(1968年)までは12車立て[4]でレースを開催した後楽園競輪場の名物レースとして親しまれたが、それまで後楽園競輪場の固定開催であったため、同場の休止が決定されると、全国各競輪場持ち回りという形で開催されるようになった。ただ近年は静岡・松戸・立川・平塚など南関東の競輪場で持ち回りしていることが多い。
第27回(1974年)からは、一次予選特別選抜競走の出場選手27名を「全国から選抜された選手が実力で最高の地位を争う」といった観点から、予め選手選考委員会において選定された選手135名により、開催直前の1月〜2月にかけて開催する「ダービートライアル」(3日間×3会場)で決定していた。
第29回(1976年)からは、原則として選考委員会より選定された選手によりトライアルレースを実施して全出場選手を決定する方式となった(3日間×2会場)。ただ早い段階でポイントを稼いで後半は欠場する、または半ば無気力に走る選手も現れたりするなどして弊害も多かったため、第48回(1995年)を以って廃止された。
第49回(1996年)からは前年の平均競走得点上位選手から順次選抜する方式となり、第51回(1998年)からは、前年における特別競輪等選手選考評価点の上位選手から順次選抜する方式となった。
第55回(2002年)では、番組改革に合わせて、敗者復活戦が第38回(1985年)以来17年ぶりに復活し、準決勝4個レース(各レース1・2着のみ勝ち上がり)+二次予選特別選抜競走(ゴールデンレーサー賞)1着選手(このときは濱口高彰)の9名により決勝戦が行われた。[5]
しかし翌年の第56回(2003年)からは通常の準決勝3個レース(各レース1〜3着のみ勝ち上がり)の9名に戻されて現在に至っている。
出場選手選抜方法
日本選手権競輪の出場選手は、競輪選手の証である賞金獲得額によって選抜される。毎回若干変更・修正されるものの、概ね以下の資格順位により正選手162名、補欠選手8名を選抜する。
- 選考期間…前年2月〜当年1月(12ヶ月)[6]、選考月…2月、最低出走回数…48出走
- S級S班在籍者
- 過去3回以上優勝した者(開催時S級1班所属が条件)
- 賞金獲得額上位者より順次選抜する
2005年大会では、1.と2.の間にアテネオリンピックトラック競技ナショナルチーム(長塚智広・伏見俊昭・井上昌己の3名)が加えられた。
なお、補欠選手は正選手を除く、賞金獲得額上位者からさらに順次選抜される。
また、正選手のうち、S級S班在籍者と賞金獲得額上位者の合計27名については、特別選抜予選競走に出走できる。
勝ち上がり方式
6日間とも11レース(他に3日目には「ガールズケイリンコレクション」1レースが行われる)。
優秀 | 初日 | 2日目 | 3日目 | 4日目 | 5日目 | 最終日 |
---|---|---|---|---|---|---|
特選予選 (1)(2) | GR賞 (1) | 準決勝 (3) | ||||
二次予選 (5)(2) | 決勝 (1) | |||||
一次予選 (10)(5) | ||||||
敗者戦 | 00-00 | (4) | (6) | (8) | (8) | (10) |
- 初日・2日目
- 「一次予選」 合計15レース行われ、各レース1〜3着45名が「二次予選」進出。
- 「特別選抜予選」 合計3レース行われ、各レース1〜3着9名は無条件で、4日目の「ゴールデンレーサー賞」と5日目の「準決勝」進出権利が同時に得られる。4〜9着18名は「二次予選」進出。
- 3日目・4日目
- 「二次予選」 合計7レース行われ、各レース1〜2着14名と3着7名のうち一走目の着順上位(特別選抜予選回りが優先)4名が「準決勝」進出。
- 「ガールズケイリンコレクション」(2014年より開催) 3日目の第12レース(2017年以降。2016年5月開催は第9レース)に行われる、女子選手による一発勝負(2016年3月開催までは5日目の第9レース)。
- 「ゴールデンレーサー賞」 二次特別選抜予選として、4日目の最終レースに行われる。失格しない限り9名全員が「準決勝」進出。
- 5日目
- 「準決勝」 後半3レース。各レース1〜3着9名が「決勝」進出。
- 6日目(最終日)
- 「決勝」 最終レース。上位3着は表彰式で表彰台に上がることができる。また、優勝者には優勝インタビューやウイニングランなどが執り行われる。
- 「順位決定」 「決勝」の一つ前のレース。「準決勝」各レース4〜6着9名により行われる。
- 「優秀」 「順位決定」の一つ前と二つ前のレース。「準決勝」各レース7〜9着9名と、二次予選敗退選手による「特選(1)」各レース1〜2着6名及び「特選(2)」各レース1着3名により行われる。
その他、2日目以降に予選敗退者を対象とした以下の競走が開催される。
- 2日目…「一般(1)」×4
- 3日目…「一般(1)」×4、「選抜」×2
- 4日目…「一般(2)」×4、「特一般」×2、「選抜(1)」×2
- 5日目…「一般(2)」×2、「一般(1)」×1、「特選(2)」×3、「特選(1)」×2
- 6日目(最終日)…「選抜」×2、「特選(2)」×3、「特選(1)」×2
途中帰郷
本大会では斡旋される正選手の数が4日制GIの1.5倍と多い割に一日ごとの競走に対する出走可能選手が少ないため、4〜5日目の「一般(2)」または5日目の「一般(1)」を走った者は最終日を待たずに(失格はなくても)途中帰郷(「お帰り」)させられる[7]。なお二次予選に進出した者は決勝に進めなくても失格にならない限り、「順位決定」レースや「優秀」レースなど、最終日の出走が保障される。
他のGI競走オールスター競輪ではお帰り対象者は傷病理由の途中欠場がなかった場合でも多くて36人止まり(4日制のGIは2017年から、2018年から同じ6日制になった競輪祭は男子の正選手は108名なので、途中帰郷がなくなった。)だが、本大会の場合は最大で63人がお帰りの通告を受ける可能性があり[8]、他の競走と比べて実に7倍に達する。早い選手では3日目の午後に斡旋契約解除の通知を受けることもあり、最終日のレース前には数十人が既に開催競輪場を離れ、帰郷の途についていることになる。
ただし、負傷や病気などにより途中欠場が多数発生した場合は補充選手を一切充当せず、代わりに途中帰郷の対象となっていた選手を帰郷させずに出走させることによって欠場を埋める形となる。これは「GI最高峰の開催である日本選手権競輪に出走できるのは、選考によって選抜された選手のみにすべき」という思想を制度に反映したもので、現在この形式が取られる開催は日本選手権競輪だけとなっている。
過去の優勝者
回 | 開催日 | 開催場 | 00優勝者00 | 府県 | GDR賞勝者 |
---|---|---|---|---|---|
01 | 1949年6月11日 6月12日 | 大阪住之江 | 横田隆雄 横田隆雄 | (27大阪) (27大阪) | |
02 | 1949年@10月23日 10月24日 | 川崎 | 横田隆雄 小林源吉 | (27大阪) (11埼玉) | |
03 | 1950年5月9日 | 名古屋 | 宮本義春 | (43熊本) | |
04 | 1951年5月6日 | 後楽園 | 山本清治 | (27大阪) | |
05 | 1951年@10月5日 | 大阪中央 | 高倉登 | (11埼玉) | |
06 | 1952年5月6日 | 川崎 | |||
07 | 1952年@11月3日 | 後楽園 | 宮本義春 | (43熊本) | |
08 | 1953年11月3日 | 大阪中央 | 中井光雄 | (25滋賀) | |
09 | 1954年11月3日 | 川崎 | 松本勝明 | (26京都) | |
10 | 1955年11月3日 | 大阪中央 | |||
11 | 1956年11月3日 | 後楽園 | 坂本昌仁 | (27大阪) | |
12 | 1957年11月3日 | 佐藤喜知夫 | (01北海道) | ||
13 | 1958年11月4日 | 吉田実 | (37香川) | ||
14 | 1959年11月2日 | 石田雄彦 | (30和歌山) | ||
15 | 1960年11月3日 | 吉田実 | (37香川) | ||
16 | 1963年3月25日 | 一宮 | 西地清一 | (27大阪) | |
17 | 1964年2月13日 | 後楽園 | 笹田伸二 | (36徳島) | |
18 | 1964年@11月10日 | 石田雄彦 | (30和歌山) | ||
19 | 1965年11月3日 | 笹田伸二 | (36徳島) | ||
20 | 1966年11月1日 | 宮路雄資 | (43熊本) | ||
21 | 1967年11月1日 | 平間誠記 | (04宮城) | ||
22 | 1968年11月5日 | 吉川多喜夫 | (14神奈川) | ||
23 | 1970年2月16日 | 一宮 | 工藤元司郎 | (13東京) | |
24 | 1970年@11月6日 | 岸和田 | 荒川秀之助 | (04宮城) | |
25 | 1972年3月7日 | 千葉 | 河内剛 | ||
26 | 1973年3月20日 | 西武園 | 阿部道 | ||
27 | 1974年2月19日 | 田中博 | (10群馬) | 福島正幸 | |
28 | 1975年3月25日 | 千葉 | 高橋健二 | (23愛知) | 伊藤繁 |
29 | 1976年4月3日 | 新井正昭 | (11埼玉) | 藤巻清志 | |
30 | 1977年3月29日 | 一宮 | 小池和博 | 中野浩一 | |
31 | 1978年3月28日 | 平 | 藤巻清志 | (14神奈川) | 福島正幸 |
32 | 1979年3月26日 | 立川 | 山口健治 | (13東京) | 国持一洋 |
33 | 1980年3月26日 | 前橋 | 吉井秀仁 | (12千葉) | 吉井秀仁 |
34 | 1981年3月24日 | 千葉 | 中野浩一 | (40福岡) | 国持一洋 |
35 | 1982年3月23日 | 大垣 | 中里光典 | (28兵庫) | 井上茂徳 |
36 | 1983年3月22日 | 前橋 | 井上茂徳 | (41佐賀) | 中野浩一 |
37 | 1984年3月20日 | 千葉 | 滝澤正光 | (12千葉) | 山口健治 |
38 | 1985年3月26日 | 立川 | 清嶋彰一 | (13東京) | |
39 | 1986年3月27日 | 平塚 | 滝澤正光 | (12千葉) | 滝澤正光 |
40 | 1987年3月24日 | 千葉 | 清嶋彰一 | (13東京) | |
41 | 1988年3月23日 | 立川 | 滝澤正光 | (12千葉) | 井上茂徳 |
42 | 1989年3月24日 | 花月園 | 小川博美 | (40福岡) | 小門洋一 |
43 | 1990年3月26日 | 平塚 | 俵信之 | (01北海道) | 滝澤正光 |
44 | 1991年3月26日 | 一宮 | 坂巻正巳 | (08茨城) | 長谷部純也 |
45 | 1992年3月25日 | 前橋 | 吉岡稔真 | (40福岡) | 尾崎雅彦 |
46 | 1993年3月24日 | 立川 | 海田和裕 | (24三重) | 伊藤公人 |
47 | 1994年3月28日 | 静岡 | 小橋正義 | (33岡山) | 神山雄一郎 |
48 | 1995年3月27日 | 松戸 | 吉岡稔真 | ||
49 | 1996年3月26日 | 千葉 | 吉岡稔真 | (40福岡) | 稲積秀樹 |
50 | 1997年3月27日 | 岸和田 | 濱口高彰 | (21岐阜) | 小橋正義 |
51 | 1998年3月26日 | 西武園 | 吉岡稔真 | (40福岡) | 吉岡稔真 |
52 | 1999年3月30日 | 静岡 | 神山雄一郎 | (09栃木) | 東出剛 |
53 | 2000年3月28日 | 千葉 | 岡部芳幸 | (07福島) | 小橋正義 |
54 | 2001年3月25日 | 松戸 | 稲村成浩 | (10群馬) | 稲村成浩 |
55 | 2002年3月24日 | 立川 | 山田裕仁 | (21岐阜) | 浜口高彰 |
56 | 2003年3月23日 | 平塚 | 伏見俊昭 小橋正義 | ||
57 | 2004年3月28日 | 静岡 | 伏見俊昭 | (07福島) | 澤田義和 |
58 | 2005年3月21日 | 松戸 | 鈴木誠 | (12千葉) | 加藤慎平 |
59 | 2006年3月26日 | 立川 | 吉岡稔真 | (40福岡) | 大塚健一郎 |
60 | 2007年3月25日 | 平塚 | 有坂直樹 | (05秋田) | 武田豊樹 |
61 | 2008年3月23日 | 静岡 | 渡邉晴智 | (22静岡) | 山崎芳仁 |
62 | 2009年3月8日 | 岸和田 | 武田豊樹 | (08茨城) | 山口幸二 |
63 | 2010年3月7日 | 松戸 | 村上博幸 | (26京都) | 村上義弘 |
64 | 2011年3月6日 | 名古屋 | 村上義弘 | 伏見俊昭 | |
65 | 2012年3月4日 | 熊本 | 成田和也 | (07福島) | 武田豊樹 |
66 | 2013年3月24日 | 立川 | 村上義弘 | (26京都) | 深谷知広 |
67 | 2014年3月23日 | 名古屋 | |||
68 | 2015年3月22日 | 京王閣 | 新田祐大 | (07福島) | 新田祐大 |
69 | 2016年3月13日 | 名古屋 | 村上義弘 | (26京都) | 平原康多 |
70 | 2016年5月5日 | 静岡 | 中川誠一郎 | (43熊本) | 原田研太朗 |
71 | 2017年5月7日 | 京王閣 | 三谷竜生 | (29奈良) | 武田豊樹 |
72 | 2018年5月6日 | 平塚 | 浅井康太 |
※第1、2回は甲規格・乙規格と分かれて開催された(前期日程が甲規格、後期日程が乙規格)。
女子優勝者
回 | 開催日 | 開催場 | 優勝者 | 府県 |
---|---|---|---|---|
02 | 1949年10月24日 | 川崎 | 高木ミナエ | (21岐阜) |
03 | 1950年5月9日 | 名古屋 | ||
04 | 1951年5月6日 | 後楽園 | 黒田智子 | (40福岡) |
05 | 1951年@10月5日 | 大阪中央 | 渋谷小夜子 | (14神奈川) |
06 | 1952年5月6日 | 川崎 | 田中和子 | (29奈良) |
07 | 1952年@11月3日 | 後楽園 | 水野信子 | (23愛知) |
08 | 1953年11月3日 | 大阪中央 | 有江美和子 | (42長崎) |
09 | 1954年11月3日 | 川崎 | 田中和子 | (29奈良) |
10 | 1955年11月3日 | 大阪中央 | ||
11 | 1956年11月3日 | 後楽園 | 畑田美千代 | (26京都) |
今後の開催予定
- 第73回(2019年4月30日 - 5月5日) - 松戸競輪場(9年ぶり5度目)
- 第74回(2020年5月5日 - 5月10日) - 静岡競輪場(4年ぶり6度目)
エピソード
数々の開催危機
競輪で最も伝統ある競走の日本選手権競輪だが、年によっては開催が無かったり年に2度開催されている。これは過去幾度も開催の危機にさらされたためであった。
後楽園競輪場で毎年開催されていた頃、1960年の大会で、決勝戦の日(11月3日)に場内に入りきれなくなった観客約1500名をバンク内に入れたままの状態で競走を行わざるを得なくなったことから、大会終了後、当時、後楽園競輪場を主催していた東京都が警備上の問題を理由として、翌年も同競輪場でダービーの開催が決定していたにもかかわらず、開催を返上することになった。当時は来場者が数万人規模となるダービーを後楽園以外の競輪場で開催すること自体困難だったことから、代替地に手を挙げる施行者は現れなかった。そのため1961年度のダービーは開催自体が行われず、競輪の歴史で唯一ダービーの開催がない年度となってしまった。
1962年度についても開催地の選定は難航を極め、2年連続での開催中止の影もちらつきはじめていた。しかし、一宮競輪場が1963年3月に同大会の開催を引き受けることになった(年度としては1962年度)ことから連続中止の危機は免れた。なお、この大会で特別競輪史上初めて、決勝戦がテレビ中継された(キー局は中部日本放送。他に東京放送、朝日放送がネット局)[9]。
その後再び後楽園での開催に戻ったが、1967年に行われた東京都知事選挙において、都営ギャンブル廃止を公約に掲げていた革新系の美濃部亮吉が当選したことにより、公約に沿って美濃部は1964年の2月に行われた開催から続けてきた後楽園でのダービー開催を1968年限りで返上することを表明[10]。そのため、またしても1969年度のダービー開催地が宙に浮く事態が生じた。だが、この時も危機を救ったのは一宮競輪場で、1970年2月の開催を引き受けたことになり無事に開催された。
しかし1971年はオールスター競輪も含めて開催地の選定に行き詰まり、夏場を迎えても開催が決定できない状況となっていたが、ダービーだけでも年度内に開催させたいという関係者の意向により、翌年の1972年3月に千葉競輪場で開催させることになった。
以後は年毎に開催地が移動する持ち回り制となり、一ヶ月程度の開催時期の変動があったりしたものの、同大会は2016年まで毎年3月に開催され続けた。
データ
2016年3月時点の大会最年長優勝者は、第69回の村上義弘=41歳(それまでは鈴木誠[11])。
2016年3月時点の大会連続出場記録保持者は、鈴木誠=26回連続(1989年の第42回大会 - 2014年の第67回)[12]。
決勝戦テレビ中継
決勝戦の地上波テレビ中継は、前述の1963年からTBS系列で放送された後、1970年代以降は東京12チャンネル → テレビ東京系列に移行され2015年(年度としては2014年度)まで放送された。
テレビ東京系列でも一部大会は、中継されていなかった大会もある。
2016年の3月開催(2015年度)と5月開催は日本テレビ系列で放送されていたが(「坂上忍の勝たせてあげたいTV」)、2017年からは再びテレビ東京系列となった。[13]
2019年は、再び日本テレビ系列に戻る予定。
脚注
^ 第62回大会(2009年)では、賞金5,500万円と副賞1,100万円。
^ 日本選手権競輪(GⅠ)(SD1) (PDF) 副賞を含まない金額
- ^ abc日刊スポーツ大阪本社版、2018年5月6日付12面
^ 日刊スポーツが選ぶ 日本選手権競輪「名勝負5番」
^ これと類似した主旨の競走体系は2009年と2010年に行われたオールスター競輪(会場は2009年が松山競輪場、2010年はいわき平競輪場)でも行われ、1次予選時の「特別選抜予選」相当の「ドリームレース」「オリオンレース」勝ち上がり9人による2次予選時の「シャイニングスター賞」で1着になった選手が準決勝免除で決勝戦シードの権利が与えられたほか、敗者復活戦を採用するなどしたが、こちらも勝ち上がりの番組体系があまりにも複雑でファンに不評であったため2年で廃止されている。
^ ただし、第70回大会の選考期間は前年4月〜当年1月となり、最低出走回数も40走となった。
^ お帰りとなった選手は番組表に『帰』のマークが付けられ、この大会の競走にはもう出場しないことを意味する。
^ 正選手162人のうち、最終日に出走できるのは最大で99人。
^ 「復活ダービー」という人もいた。
^ 1972年10月をもって、後楽園競輪場での競輪開催は事実上休止された。
^ 村上義弘 名古屋ダービー3連覇/名古屋 - 日刊スポーツ、2016年3月14日
^ 【競輪】鈴木誠、連続出場記録途絶える - デイリースポーツ
^ 2017年と2018年は日本テレビ系列はワールドレディスチャンピオンシップを優先したため。
外部リンク
- 競輪資料室 決勝戦結果レポート
日本選手権競輪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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