和賀忠親




















































 

凡例
和賀忠親

Tomb of Waga Tadachika.JPG
和賀忠親主従の墓
宮城県仙台市の陸奥国分尼寺境内。

時代
安土桃山時代
生誕
天正4年(1576年)
死没
慶長6年5月24日(1601年6月24日)
別名
義房、主馬殿
墓所
宮城県仙台市若林区国分尼寺
官位
主馬祐
氏族
和賀氏
父母
父・和賀義忠(義治?)
兄弟
義長、秀親、忠親、忠勝、長勝
妻
正室・小原忠秀娘
子
義弘、小原忠弘

和賀 忠親(わが ただちか)は、安土桃山時代の武将。




目次






  • 1 略歴


  • 2 脚注


  • 3 出典


  • 4 関連項目





略歴


和賀氏は陸奥国和賀郡[1]を治めていた国人。


忠親(父・和賀義忠とも)は天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣せず、名代だけを派遣したことから豊臣秀吉の怒りを買って改易された。その後、忠親は伊達政宗を頼って伊達領の胆沢郡に住した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、領地拡大の野望を燃やす政宗の密命を受けて、旧領を回復しようと岩崎一揆を起こした。政宗の援助を受けて和賀郡を治めていた南部利直の領地に攻め込み、花巻城(鳥屋ヶ崎城)を急襲したが、北信愛と利直の反撃を受けて失敗。その後、逃げ延びたが近臣の蒲田治道、筒井喜助、齋藤十蔵と共に陸奥国分尼寺で自害した。


政宗により暗殺されたともいう説もあり、そのほか伊達家のために切腹を願い出た「政宗公より主馬殿へ被、仰遣候は此度之義政宗一大事に候間切腹を被相頼度候」という記録もある。墓は仙台市若林区の国分尼寺に近臣7人のものと共に立てられている。


この事件が原因で、伊達政宗は関ヶ原の戦いの際に徳川家康から約束されていた100万石のお墨付きを反故にされたと言われている。なお、嫡男の義弘は120石で伊達氏に仕えた。



脚注




  1. ^ 現岩手県北上市周辺。



出典


  • 史說北上平野の戦乱: 和賀一族をめぐる悲劇(紫桃正隆)


関連項目



  • 『独眼竜政宗』(1987年NHK大河ドラマ、演:山本紀彦)

  • 岩崎城

  • 白石宗直

  • 蒲田治道




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