カルロス・ロイテマン














































































カルロス・ロイテマン

Reutemann 1981.jpg

ウィリアムズF1時代(1981年)

基本情報
フルネーム
カルロス・アルベルト・ロイテマン
国籍
アルゼンチンの旗 アルゼンチン
出身地
同・サンタフェ
生年月日
(1942-04-12) 1942年4月12日(76歳)

F1での経歴
活動時期
1972-1982
所属チーム
'72-'76 ブラバム
'77-'78 フェラーリ
'79 ロータス
'80-'82 ウィリアムズ
出走回数
146
タイトル
0
優勝回数
12
表彰台(3位以内)回数
45
通算獲得ポイント
310
ポールポジション
6
ファステストラップ
5
初戦
1972年アルゼンチンGP
初勝利
1974年南アフリカGP
最終勝利
1981年ベルギーGP
最終戦
1982年ブラジルGP
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カルロス・アルベルト・ロイテマン(Carlos Alberto Reutemann, 1942年4月12日 - )は、アルゼンチン出身の元F1ドライバー、政治家。




目次






  • 1 プロフィール


  • 2 F1デビュー


  • 3 F1戦歴


  • 4 F1以外の戦歴


  • 5 ドライバー引退後


  • 6 通算成績


  • 7 カーナンバー (F1)


  • 8 F1での年度別成績


  • 9 脚注





プロフィール


祖父はスイス系、母親はイタリア系。1972年、前年F2のチャンピオンを取ったブラバムからF1にステップアップ。レースデビューは29歳であり、デビューの遅いドライバーである。



F1デビュー


インディ500のみ出走ドライバーを除くとF1世界選手権史上4人しかいない、「F1デビュー戦でポールポジション」という鮮烈なデビューを飾る。残りの3人はジュゼッペ・ファリーナとマリオ・アンドレッティ[1]とジャック・ヴィルヌーヴであるが、ファリーナは戦前から第一線のドライバーとして活躍しており、たまたまF1世界選手権最初のレースになった1950年イギリスGPでポールポジションを獲得したもので、アンドレッティは既にアメリカのインディで活躍していて、ヴィルヌーヴはデビュー前年にアメリカのトップフォーミュラであるCARTにてシリーズチャンピオン、ともに当時最高のチームから参戦したのに対し、ロイテマンが所属したブラバムは当時ポイント獲得にも四苦八苦するようなチームであり、同じような記録でありながらその印象は他の3人と比較してもとくに際立っている。



F1戦歴




1974年レース・オブ・チャンピオンズでのロイテマン


しばらくブラバムをドライブし、在籍中に初勝利も掴むが、1976年にブラバムがエンジンをフォードからアルファロメオに変えたところ戦闘力が低下。シーズン中盤のラウダの事故によりフェラーリから誘いをうけ、ブラバムとの契約を“買い戻し”イタリアGPにはフェラーリから出走。そのまま翌年にはフェラーリに移る。





フェラーリ・312T3をドライブするロイテマン(1978年アメリカGP)


フェラーリ移籍1年目の1977年にはニキ・ラウダと共に闘いコンストラクターズチャンピオンを獲得。ラウダが不満を言うほどの好待遇で迎えられ、これがラウダ離脱の一因とも言われる。(実際、チームに嫌気のさしたラウダはチャンピオン獲得を決めるとフェラーリを出て行ってしまった)ラウダの抜けた後はチームリーダーとして活躍するが、歯に衣きせぬ物言いからエンツォを初めとするチーム首脳に疎まれ、またラウダの代わりに加入したジル・ヴィルヌーヴの方がそのアグレッシブな走りからチームに支持されるようになり、居場所の無くしたロイテマンは1978年限りでフェラーリを去ることとなる。翌年のフェラーリ312T4の出来が良く、その一方でロータスのマシンの80は前年のチャンピオンカー79から一転して不振となり、ロイテマンは年間を通して79をドライブするも、結果としてチャンピオン獲得のタイミングを逃してしまった。


1年間のロータス在籍を経て、1980年からウィリアムズに移籍。その年はチャンピオンとなったチームメイトのアラン・ジョーンズの後塵を拝することも多かった。翌1981年には序盤にチームオーダーを無視してジョーンズとの関係が悪化、ポイントを取り合う形となってジョーンズやネルソン・ピケと激しくドライバーズタイトルを争うことになる。途中までリードしていたものの、1点リードで臨んだ最終戦のアメリカGPでピケ5位(2点獲得)、ロイテマン8位(ノーポイント)となり逆転負け、結局シーズン2位に終わる。結果的に1981年シーズンもチャンピオンを取る力は十分にあったもののチーム、チームメイトとの意思疎通によりチャンピオンを獲ることが出来なかった。


シーズン終了後に引退を発表したが撤回[2]、1982年もウィリアムズに在籍するも、フォークランド紛争が激化しつつある中でアルゼンチン国籍のロイテマンがイギリスをホームとするウィリアムズから参戦し続けるわけにもいかず、再び引退を表明することになる。なお、これには異説も多々あり、のちにこのシーズンでドライバーズチャンピオンとなる同僚のケケ・ロズベルグの速さに、まもなく40歳になるロイテマンがモチベーションを喪失した、という説などもある。


気難しい事で知られ、レース直前のインタビューでも「難しいよ」と一言言って去る事が多かったと言われている。また、フェラーリ時代のチームメイトでもあったニキ・ラウダからは「奴は蛇のように冷たい」とまで言われていたともされる。



F1以外の戦歴


1973年のル・マン24時間にフェラーリから出場したがリタイヤとなった。


1980年と1985年の2度、母国で開催されたWRCにプジョーのワークスドライバーとして参戦し(しかも1985年はカーナンバー1)、いずれも総合3位で完走している。



ドライバー引退後




政治家時代(2005年)


引退後は政界に進出し、1991年にはアルゼンチンのサンタフェ州知事となり、2002年にはアルゼンチンの大統領候補にもなった。また2011年の大統領選挙にも、再び出馬する意向を示していた。



通算成績


通算獲得310ポイントは歴代13位、通算優勝回数12回はマリオ・アンドレッティやアラン・ジョーンズと並び歴代18位、1980年から1981年にかけて当時史上最長の15戦連続入賞(のちにミハエル・シューマッハに更新されるも、2009年現在で歴代5位)を記録した。



カーナンバー (F1)


ナンバーが固定となった1973年以降のみ。




  • 10(1973年)


  • 7 (1974年〜1976年第12戦)


  • 35(1976年第13戦)


  • 12(1977年)


  • 11(1978年)


  • 2 (1979年.1981年)


  • 28(1980年)


  • 5 (1982年第1.2戦)



F1での年度別成績










































































































































































































































































































































































所属チーム
シャシー
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
WDC
ポイント

1972年

ブラバム

BT34

ARG
7

RSA
Ret

ESP

MON













16位
3

BT37





BEL
13

FRA
12

GBR
8

GER
Ret

AUT
Ret

ITA
Ret

CAN
4

USA
Ret






1973年

ARG
Ret

BRA
11

RSA
7














7位
16

BT42




ESP
Ret

BEL
Ret

MON
Ret

SWE
4

FRA
3

GBR
6

NED
Ret

GER
Ret

AUT
4

ITA
6

CAN
8

USA
3



1974年

BT44

ARG
7

BRA
7

RSA
1

ESP
Ret

BEL
Ret

MON
Ret

SWE
Ret

NED
12

FRA
Ret

GBR
6

GER
3

AUT
1

ITA
Ret

CAN
9

USA
1


6位
32

1975年

マルティーニ (ブラバム)

BT44B

ARG
3

BRA
8

RSA
2

ESP
3

MON
9

BEL
3

SWE
2

NED
4

FRA
14

GBR
Ret

GER
1

AUT
14

ITA
4

USA
Ret




3位

37

1976年

BT45

BRA
12

RSA
Ret

USW
Ret

ESP
4

BEL
Ret

MON
Ret

SWE
Ret

FRA
11

GBR
Ret

GER
Ret

AUT
Ret

NED
Ret





16位
3

フェラーリ

312T2













ITA
9

CAN

USA

JPN


1977年

ARG
3

BRA
1

RSA
8

USW
Ret

ESP
2

MON
3

BEL
Ret

SWE
3

FRA
6

GBR
15

GER
4

AUT
4

NED
6

ITA
Ret

USA
6

CAN
Ret

JPN
2
4位
42

1978年

ARG
7

BRA
1
















3位

48

312T3



RSA
Ret

USW
1

MON
8

BEL
3

ESP
Ret

SWE
10

FRA
18

GBR
1

GER
Ret

AUT
DSQ

NED
7

ITA
3

USA
1

CAN
3


1979年

マルティーニ (ロータス)

79

ARG
2

BRA
3

RSA
5

USW
Ret

ESP
2

BEL
4

MON
3

FRA
13

GBR
8

GER
Ret

AUT
Ret

NED
Ret

ITA
7

CAN
Ret

USA
Ret


6位
20 (35)

1980年

ウィリアムズ

FW07B

ARG
Ret

BRA
Ret

RSA
5

USW
Ret

BEL
3

MON
1

FRA
6

GBR
3

GER
2

AUT
3

NED
4

ITA
3

CAN
2

USA
2




3位

42 (49)

1981年

FW07C

USW
2

BRA
1

ARG
2

SMR
3

BEL
1

MON
Ret

ESP
4

FRA
10

GBR
2

GER
Ret

AUT
5

NED
Ret

ITA
3

CAN
10

CPL
8



2位

49

1982年

RSA
2

BRA
Ret

USW

SMR

BEL

MON

DET

CAN

NED

GBR

FRA

GER

AUT

SUI

ITA

CPL

15位
6



  • 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)


  • 印はハーフポイント。レース周回数が75%未満で終了したため、得点が半分となる。



脚注




  1. ^ マリオ・アンドレッティが初めてにF1に出走したのは1969年のイタリアグランプリだが、そのとき予選で失格になっている。そして、次のアメリカグランプリでポールポジションを獲得している。


  2. ^ 林信次 『F1全史 1981-1985』 ニューズ出版、1992年、16頁。












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