高校三年生 (舟木一夫の曲)
「高校三年生」 | ||||
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舟木一夫 の シングル | ||||
B面 | 水色のひと | |||
リリース | 1963年6月5日 | |||
録音 | 1963年2月3日[1] | |||
ジャンル | 歌謡曲 | |||
レーベル | コロムビアレコード | |||
作詞・作曲 | 丘灯至夫、遠藤実 | |||
ゴールドディスク | ||||
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舟木一夫 シングル 年表 | ||||
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「高校三年生」(こうこうさんねんせい)は、1963年6月にリリースされた舟木一夫のデビュー・シングルであり、舟木の代表曲のひとつである。作詞は丘灯至夫、作曲は遠藤実による。デビューシングルでいきなりシングル発売1年で売上100万枚を越す[1]大ヒット曲となり、舟木一夫はこの曲で一躍スター歌手となった。累計売上は230万枚[2]。
舟木は、この曲の大ヒットで1963年末の第5回日本レコード大賞・新人賞を受賞し、作詞家の丘灯至夫も作詩賞を受賞した。また同年大晦日の第14回NHK紅白歌合戦へ初出場。さらに1992年の第43回NHK紅白歌合戦(1971年の第22回以来、21年ぶり10回目の紅白出演)にも、29年振りに同曲を披露している。そして2007年には、当曲が文化庁と日本PTA全国協議会によって「日本の歌百選」のひとつに選定された。
堀威夫によると、校内放送で堂々と流行歌が流れるようになったのはこの曲からという[3]。
目次
1 背景
2 収録曲
3 映画
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
背景
元々は岡本敦郎が歌うことを想定して作られた歌であったが、岡本が既に「高校三年生」という世代ではなかったことや、岡本の歌唱に合わないという意見があり、当時はお蔵入りになった経緯がある。
この曲は最初はワルツ風の旋律だったが、遠藤実の気が変わり、曲をマーチ風に作り直した[4]。また、貧しさのため高校に進学できなかった遠藤実の、学園生活に憧れた思いもこの曲に込められている[4]。
歌詞は、高校生活も残りわずかになった高校三年生の純朴な気持ちが綴られている。この曲を録音した当時、舟木は現役の高校三年生であった(レコード発売は卒業後)[1]。レコードジャケットの舟木は学生服姿であるが、これは舞台で学生服を着ることがあった橋幸夫に対抗する意味合いがあった[5]。現在でも学園ソング(青春歌謡)の定番としてこの曲が挙げられることが多い。また「高校三年生」以降も舟木はいくつもの青春歌謡を発表している。
歌詞の中に現われる赤い校舎は東京都の私立松蔭高校であると言われ、現在同校には歌詞が書かれた歌碑がある。歌碑の由来文には「作詩家 丘灯至夫は昭和37年新聞記者として、高校の文化祭の取材に当たっていた」と書かれ、「取材先として訪れた松蔭学園では、当時定時制高校があり、文化祭のリハーサルで男女の生徒が手をつなぎ、フォークダンスを踊っていた。そこで最初に浮かんだのが「フォークダンスの手を取れば甘くにおう黒髪の」というフレーズであり、詩が作られ、作曲家遠藤実氏とのコンビでこの歌が生まれるに至った」と続けられている。松蔭高校の前身が松蔭女学校であるため、それを持って、「松蔭高校は女子校であり、定時制も無かった」との記載もあるが、松蔭女学校の創立は昭和41年であり、それ以前には定時制高校が実際に存在していた。
収録曲
両楽曲とも、作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤実、編曲:福田正
- 高校三年生
- 水色のひと
映画
曲の発表と同じ1963年には、この歌をモチーフに大映により同名のタイトルで富島健夫の『明日への握手』を原作とした映画が制作されこちらもヒットした。主演は舟木一夫である。→高校三年生 (映画)
脚注
- ^ abc読売新聞社文化部『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』社会思想社、1997年、102頁。ISBN 4390116010
^ 丘灯至夫さん死去…舟木一夫「育ての親失った」、スポーツ報知、2009年11月25日6時1分。
^ 『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』104頁。
- ^ ab遠藤実『涙の川を渉るとき 遠藤実自伝』日本経済新聞出版社、2007年、155頁。ISBN 978-4-532-16584-0。
^ 『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』102-104頁。
関連項目
- 1963年の音楽
外部リンク
- 『高校三年生』 - 歌ネット