立憲政友会








































日本の旗 日本の政党
立憲政友会

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立憲政友会本部

成立年月日
1900年9月15日[1]
前身政党
憲政党
帝国党(一部)
民党系諸氏
解散年月日
1940年7月16日(正統派・統一派)
1940年7月30日(革新派)
解散理由
大政翼賛会への合流のため
後継政党
同交会(人脈的には日本自由党→民主自由党→自由党→自由民主党)
政治的思想・立場
保守主義[2][3]
自由主義[3]
憲法遵守[4]
「皇室中心主義」[5]
修正資本主義[6]
機関紙
『政友』[7]
『中央新聞』[8]
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立憲政友会(りっけんせいゆうかい)は、戦前の帝国議会において日本最初の本格的政党内閣を組織した政党で[2]、明治後期から昭和前期の代表的な政党である[9]。略称は政友会(せいゆうかい)[10]




目次






  • 1 概要


  • 2 歴史


    • 2.1 前史


    • 2.2 結党


    • 2.3 桂園時代


    • 2.4 原総裁の時代


    • 2.5 分裂(第1次)と合同


    • 2.6 二大政党の時代


    • 2.7 分裂(第2次)と解党


    • 2.8 解党後の旧政友会所属議員の行動




  • 3 幹部人事


    • 3.1 歴代総裁一覧


    • 3.2 副総裁


    • 3.3 幹事長


    • 3.4 総務委員


    • 3.5 最高顧問




  • 4 脚注


  • 5 参考文献


  • 6 関連文献


  • 7 関連項目





概要


1900年(明治33年)9月15日に結党され、数代の内閣を組織して政権を担った。1939年(昭和14年)に分裂して革新派(中島派)・正統派(久原派)・中立派(金光派)の鼎立状態となり[注 1]、1940年(昭和15年)7月16日に正統派と統一派(中立派の後身)が解散し、同年7月30日に革新派が解散したことにより解党となった。


政友会の特徴は同党の成立趣意書にもあるように、「余等同志は国家に対する政党の責任を重んじ、専ら公益を目的として行動」するのであって、「国運を進め文明を扶植」するため与論を指導し、地方公共施設の建設にも「公益」を最優先させる「国家公党」を謳った点である[11]。党ではなく、立憲政友「」を称したのも、国家利益の優先や国家との一体感を強調する初代総裁・伊藤博文の政党観に由来し、政党に対する国家の優位性を表している[12][13]。政友会は私的な利益を追求する政党を抑える「反政党」的な政党だった[13]


その上で、個人の権利自由の保全や友好外交、国防充実、教育振興、産業発展、交通網の充実などを掲げた[11]。特に犬養総裁時代では経済を中心とする平和的な対外政策「産業立国主義」[注 2]が標榜された[14]。他方、政友会の主力な支持基盤に地方の地主がいたこともあって、地方自治の尊重や地方分権も掲げられた[15][16]


当時次第に増加していた実業家たちを積極的に取り込むことで商工業ひいては国家の発展を目指した伊藤は、従来は地主だったが寄生地主化して実業家になり都市部に住むようになった市議会議員・商業会議所の会頭・会社社長・弁護士・銀行頭取などに入党を勧誘した[11]。西園寺内閣下では鉄道の国有化や新設、築港、学校建設など積極政策を展開し、その利権投与によって党員や周辺の民衆を惹き付けて党勢拡張に成功[17]。三井財閥、安田財閥、渋沢財閥などの大財閥の支持も得た[9]



歴史



前史


大日本帝国憲法の作成者である伊藤博文はこれまでも政党結成を何度も試みるも、いずれも周辺人物の反対に遭い失敗した[注 3]が、今回は強い決意のもと時間を掛けながら進められ、また憲政党・帝国党・日吉倶楽部ら155名の議員が呼応し過半数政党として成立した[11]


なお前身政党の一つの憲政党は政友会結成の2日前(1900年9月13日)に臨時大会を開き、伊藤の新党に参加するため解党を決議する[1]



結党


1900年(明治33年)9月15日、超然主義の破綻と政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した。伊藤自身が初代総裁となり、伊藤系官僚と憲政党(旧自由党)・帝国党・民党関係者の星亨、松田正久、尾崎行雄、伊東巳代治、西園寺公望、渡辺国武、金子堅太郎、片岡健吉、大岡育造、江原素六、元田肇、渡辺洪基、原敬らが中心となって創立に動き、紅葉館で創立発会が行われ、帝国ホテルに事務所を設置した。党の主要な委員会および人数は総裁選任事項であり、総裁専制色の強い組織だった[20]


政党に不信感を持っていた明治天皇は伊藤の政党結党に対して強く反対したが、伊藤は議会の中に天皇と国益を重んじる政党が必要であることを力説して了承を得る(このとき、伊藤を通じて下賜金2万円が政友会に与えられた)。結党翌月の10月には政友会を中心に第4次伊藤内閣が成立し、この内閣の陸相・海相・外相以外の閣僚が政友会員で構成されていた[7]。だが、依然として超然主義を奉じる貴族院最大会派の研究会は伊藤の入党要請を拒絶する会派決議を行ったばかりでなく、1901年義和団の乱の軍費捻出のための増税案を他の5会派(茶話会・朝日倶楽部・庚子会・木曜会・無所属団)を糾合して否決、伊藤内閣を総辞職に追い込んだ。



桂園時代



第1次桂内閣で妥協と反対の両政策を取り、1902年の衆議院総選挙では190議席を獲得して過半数を制する。党内からは総裁専制との批判が起こり、翌年政党政治を嫌う山縣有朋は、伊藤を総裁から退かせるために枢密院議長に就任するよう推挽する(なお、この過程で桂内閣との妥協を推進した田健治郎とこれに反対した尾崎[注 4]はそれぞれの反対派に追われる形で離党している。この内紛によって所属衆議院議員の1/3が離党・除名された)。


また1903年には千葉県選出議員東條良平、同大澤庄之助、岡山県選出の安井丈夫が詐欺罪で有罪となり議員資格を喪失[注 5]


伊藤が総裁を辞任して枢密院議長となると、同院前議長の西園寺公望が後継総裁となる。1904年日露戦争では桂内閣を支持した。1906年成立の第1次西園寺内閣には2大臣を送り、年来の主張であった鉄道国有化を実現した。つづく第2次桂内閣にも与党、第2次西園寺内閣のもとでは原敬・松田正久を中心に党勢を拡大する。第3次桂内閣に対しては護憲運動を組織して倒閣に追い込み(大正政変)、1913年成立の第1次山本内閣の与党となった。西寺とが交代で政権を担当したこの時代は両名の姓を取って「桂園時代」と呼ばれた。



原総裁の時代


大正政変後、公家出身の西園寺は大正天皇の名で第3次桂内閣へ協力するよう詔勅が出ていたのを拒否した「違勅」の政治的責任を取って辞表を提出した。後任には松田が望まれたが、松田が急死したために原敬が1914年に総裁となる。大正デモクラシーの波にのって成長し、1917年第一党に復帰、1918年米騒動後、1918年(大正7年)に原敬が首班となって、日本最初の本格的な政党内閣を組織した。


大正時代の政友会は、原敬を核として山本達雄、水野錬太郎、高橋是清ら伊藤博文系の政治家や非山縣有朋系官僚等を中心にして当時議会の多数派を占めていた大政党であり、「積極政策」を政策の目玉とし、地方利益の獲得を党勢拡大の梃子にしていた。ただ、原敬の歿後、党内で党人派=総裁派(高橋是清、尾崎行雄、野田卯太郎、横田千之助、小泉策太郎、小川平吉、岡崎邦輔ら)と官僚派=非総裁派(山本達雄、床次竹二郎、中橋徳五郎、元田肇ら)の対立傾向が先鋭化し始めていた。



分裂(第1次)と合同


原総裁のもとでは表面化しなかった内部対立が後継の高橋是清総裁の時代になると顕在化していった。対立の構図は、官僚系メンバー(中橋徳五郎・元田肇など)と自由党系メンバー(横田千之助・望月圭介など)の争いであった。第45回帝国議会後に内閣改造を企画した高橋首相は、1921年(大正10年)5月2日の閣議で内閣改造を提案するも、元田鉄相・中橋文相の反対にあい、更に翌日の閣議では山本農相も反対に回ったため一度は断念した。続く、6月5日には政友会の議員総会で総裁一任を決議して閣僚に辞表を求めた。山本農相・床次内相・野田逓相は辞表提出に同意したが、元田鉄相・中橋文相は内閣改造にあくまでも反対したため高橋内閣は総辞職することとなった。高橋や横田の内閣改造派は、非改造派の元田・中橋・木下・吉植・田辺・田村の6人を除名した。除名者が復党したのは半年後の12月のことであった。


高橋後に組閣したのは加藤友三郎であった、政友会が衆議院の第一党であるにも関わらず政権を失ったことについて党を主導した横田への批判が高まり、1922年(大正11年)9月3日付けの『神戸新聞』には「政友本党」の名で新党設立の動きがあることが報道された。加藤内閣の後も第2次山本内閣が続き、政友会には政権が回ってこなかった。このため1923年(大正12年)12月からの第47回帝国議会(臨時会)で政友会内に改革運動として再度紛糾が起き、改革派の山本・元田・中橋が総務委員に加わることで妥協を見た。山本後の内閣についても選挙管理内閣の意味合いもあって枢密院議長の清浦奎吾を首班とする清浦内閣が成立し、政友会は衆議院第一党のまま都合三度の政権を逃した。清浦は1924年(大正13年)1月1日に大命を拝受し、2日から組閣に入り、貴族院最大会派の研究会へ協力を要請した。当初、政友会では衆議院の議席を背景に床次と横田を通じて数名の閣僚を要求することで清浦が組閣を断念することに期待した。清浦内閣の組閣が難航する中、政友会改革派は高橋を引退させ、研究会とともに清浦内閣に協力し、床次を政友会総裁にして副総理格で入閣させることを企画した。折しも当時、高橋は総裁を辞任する決心を一度は漏らしていたが、小泉策太郎の説得で翻意して清浦内閣には野党の立場をとることを決めた。この高橋総裁続投の結果が政友会の分裂をもたらすこととなった。当初、横田や小泉は脱党者を少数と見積もっており、衆議院第一党は確保され、むしろ結束を固める良い機会だと見込みを立てていた。横田の予測では脱党者は20人から30人、多くても50人と推測していた。政友会幹部の中には脱党者を100人前後と予測していた者もおり、例えば松野鶴平は脱党者130人前後、残留組110人、去就不明者37人を予測した。また、小泉は脱党者130人、残留組150人程度であり、原前総裁の後継党であるという正当性もあるため、来たる選挙では160~180議席を獲得して比較第一党を維持可能と考えた。15日には清浦内閣反対を決定し、高橋総裁は爵位を子に譲り平民となって[注 6]総選挙へ出馬することを宣言した。これを受け、政友会改革派は分裂を決心し、政友本党を結成して清浦内閣の与党を構成した。床次は最後まで迷っており、16日午後の岡崎邦輔の説得によって一時は政友会に踏みとどまって高橋と進退を共にすることを誓い、脱党組を説得しようとしたが逆に再度の説得をうけて脱党することとなった。16日夜、改革派の山本・元田・中橋・床次は脱党届を高橋総裁に提出し、結局過半数上の148人が政友会から分裂して政友本党を結成することとなった。29日、帝国ホテルで政友本党の結成式が行われた。第48回帝国議会の開始時に第一党は政友本党(150議席)であり、少数となった第二党の政友会(139議席)は18日に三浦梧楼宅で憲政会(103議席)・革新倶楽部(43議席)と会談し、護憲三派を形成して倒閣運動を開始した。清浦内閣では選挙権の拡大について選挙法改正に取り組んだが、独立生計を持つものについて大正17年(1928年、実際には大正天皇崩御により昭和3年)5月からの施行を目指したものであった。これが野党の攻撃の的となり、1924年(大正13年)1月31日に内閣不信任案が提出され議場に極度の混乱をもたらしたため、政府は衆議院の解散を行った。一般的に護憲三派は普通選挙を推進していたとされるが、個別に見れば政友会では従前の経緯もあって普通選挙は推進していなかったし、逆に与党の政友本党では普通選挙をスローガンとしていた。[21]


関東大震災の影響で選挙人名簿の整備が遅れたため総選挙は解散から100日後の5月10日に投票が行われた。総選挙では与党の政友本党(114議席、第二党)および護憲三派のうち政友会(101議席、第三党)と革新倶楽部(30議席、第四党)がともに議席を減らし、憲政会(153議席、第一党)が躍進した。政友本党では総務の中橋徳五郎が落選をした。政友会では選挙によって第一党となるか、または革新倶楽部と合同することで第一党を狙っていたが当てが外れ、高橋総裁の責任問題であったが後継者難によって総裁は続投された。この間に、政友本党の床次総裁は5月23日に密かに松本剛吉と会談を行い、80人を率いて政友会復帰を果たしたいので横田千之助への交渉を依頼した。松本は西園寺公望と相談のうえ、極秘裏のまま留保することとした。このため床次派の政友会復帰は流れ、逆に反床次派による政友会復帰運動が起こった。5月25日、西園寺公望と会談した清浦首相は総選挙の結果を受けて議会運営が難しくなったため総辞職を申し出たが、西園寺の助言で選挙結果=政権交代が前例となるのを避けるために内閣不信任案が提出されてからの総辞職をすることとなり、辞職は6月7日となった。この間、政友会では小泉策太郎が政友会・革新倶楽部・政友本党を連合させる反憲政会運動を画策し、また清浦内閣側でも大木遠吉が政友会と政友本党の多数派合同による居座り工作がなされたがいずれも成功しなかった。9日、西園寺は衆議院第一党の憲政会党首加藤高明を首相に推奏した。加藤は最終的に護憲三派で内閣を構成したが、組閣時に政友会のポスト要求を拒むために政友本党との連立をほのめかした。政友会では党務を処理していた横田千之助が司法大臣に就いたため、野田卯太郎を新設の副総裁とした。総選挙で敗れた政友本党では、今まで設置していなかった党首ポストを設け、当初山本達雄を推戴しようとしたが山本が固辞したため、床次竹二郎が総裁に収まった。


護憲三派による加藤高明内閣が成立して間もない1924年(大正13年)8月には政友会の岡崎邦輔たちは加藤内閣で根本的な財政整理ができない場合にはより一層強力な内閣が必要であり、政友会と政友本党を合同させて陸軍大将の田中義一を総裁とすることを企画した。この計画は秋にも合同があり得るとの話であったが、高橋総裁の反対にあって頓挫した。1924年(大正14年)、第50回帝国議会では加藤高明内閣により普通選挙案が提出されると、政友会への復帰が図られたが政本合同運動は破綻し、復帰派による五月雨式脱党が起き、12月29日には鳩山一郎や中橋徳五郎など22名が政友会へ合流した。1926年(大正15年)1月20日の政友本党の党大会では顧問の川原茂輔などの引き締めもありなお、80人以上を擁してキャスティングボートを握る第三党路線を堅持した。8月、護憲三派の連立が崩れて憲政会単独内閣(いわゆる第2次加藤高明内閣)が成立した後は、政友本党が衆議院におけるキャスティング・ボートを握る展開となる。当初は政友会との合同の機運が高まり(政本合同問題)、田中政友会総裁と床次政友本党総裁の会談により提携の申合せ書が作成されたが、床次は合同には消極的であり、12月の第51帝国議会では衆議院の常任委員長ポストの割り振りをめぐって交渉が決裂した。こうした動きの中で12月29日、中橋徳五郎・鳩山一郎ほか合同促進派22名が脱党し、翌年2月にその多くが政友会に復党した。1927年(昭和2年)2月25日には憲政会と政友本党の連合(いわゆる、憲本提携)が成立し立憲民政党が政権を取ったが、政友会は切り崩しを行い、杉田定一・元田肇・川原茂輔など30名を脱党させ政友会に合流させた。昭和金融恐慌がおき、第1次若槻内閣が総辞職すると、代わって立憲政友会総裁の田中義一が内閣を組閣した。田中総裁の頃から、在郷軍人会が田中の影響で政友会の支持団体に加わるなど「政友会の親軍化」がいわれるようになる。



二大政党の時代


昭和に入ってからの政友会は民政党と交替で数年間にわたって政権を担うこととなる。1930年(昭和5年)の浜口雄幸首相遭難事件や1932年(昭和7年)五・一五事件での自党の犬養毅暗殺を政党政治の危機とはとらえず、民政党追い落としを画策して、親軍的保守的性格を却って強めたため国民の信を失い、犬養首相暗殺後「政党内閣で首相の死去による内閣総辞職の場合は後継の与党党首に大命が降下する」という「憲政の常道」にもかかわらず政権を逃し、1936年の総選挙では総裁の鈴木喜三郎が落選するなどの大惨敗を喫し、民政党、社会大衆党の躍進を許した。その後は1937年(昭和12年)浜田国松のいわゆる「腹切り問答」に代表されるような反ファッショ姿勢に一時的には転換したものの、盧溝橋事件に端を発する日中戦争の拡大以後は戦争に協力する姿勢に戻った。さらに1939年に次期総裁をめぐり久原房之助と中島知久平の2派に分裂する(後述)。1940年(昭和15年)に両派とも解党して新体制運動に参加、大政翼賛会に合流した。



分裂(第2次)と解党


1937年(昭和12年)、鈴木の総裁辞任後、鳩山一郎・前田米蔵・島田俊雄・中島知久平の4名が総裁代行委員を務める集団指導体制となったが、1939年(昭和14年)4月30日中島は一方的に「政友会革新同盟」を結成してその総裁となった。一方、中島総裁に反対する鳩山らは病床の鈴木前総裁を動かし、中島の革新同盟総裁就任2日前に新たに久原房之助・三土忠造・芳澤謙吉の3名を政友会の総裁代行委員に任命した[22]。ここに政友会は、




  • 正統派 - 久原派とも(鳩山・久原・三土・芳澤・肥田琢司らが中心)


  • 革新派 - 中島派とも、正式名称は政友会革新同盟(中島・前田・島田・田邊七六・東郷実らが中心)


の2派に分裂した。この分裂を、大正末期の政友本党結党にともなう分裂(第一次分裂)との対比で、第二次分裂と呼ぶこともある。


正統派は5月20日臨時党大会を開き、鈴木前総裁の指名という形式で久原を総裁とすることを決定[22]、一方の革新派は旧昭和会の望月圭介・山崎達之輔ら政友会出身者を合流させた。またこの分裂の際に、正統派・革新派のどちらにも与しなかった金光庸夫・犬養健・太田正孝らは中立派を結成、翌1940年(昭和15年)には折からの斎藤隆夫除名問題で斎藤除名を支持して正統派内で孤立した議員がこの中立派に合流し、以後は「統一派」を名乗った。



  • 中立派 - 金光派とも(金光・犬養・太田らが中心)→ 統一派に発展

第二次分裂時、党機関紙『政友』や党史の編集部門は革新派に握られていた。そのため解党後の1943年(昭和18年)に完成した『立憲政友会史』では、中島を正式な政友会第8代総裁としている。一方正統派は新たに党機関誌『立憲政友』を発行、久原を正統な政友会第8代総裁としてこれに対抗した。


しかし同年7月16日には66名を擁する正統派と10名を擁する統一派が解党、7月30日には97名を擁する革新派も解党して大政翼賛会に合流、ここに伊藤博文の結党から40年の歴史を持つ政友会は名実共に消滅するに至った。



解党後の旧政友会所属議員の行動


解党1年前の第2次分裂でほぼ二分された政友会に所属していた議員の行動は解党前に所属していたグループにより各々分かれた。その中でも親軍派である革新派及び人数的には少数派の中立派→統一派に所属していた議員は翼賛議会の下でも主流派である翼賛議員同盟→翼賛政治会→大日本政治会に所属し[23]、戦後は日政会を母体として結党された日本進歩党に参加した[23]。一方翼賛政治に批判的だった鳩山派と親軍派でありながら革新派への対抗意識から鳩山派と行動をともにした久原派からなる正統派の場合はより複雑だった。鳩山派は翼賛議員同盟の結成には参加せず、1941年(昭和16年)8月2日に国勢調査会を結成し[24]、国勢調査会を母体として同年11月10日に同交会を結成した[24]。同交会所属議員で翼賛選挙に出馬した者は全員翼賛政治体制協議会の非推薦候補だったため政府によって徹底的に妨害を受け[25]、当選者はわずか9名に終わり[26]、翼賛選挙後の1942年(昭和17年)5月14日に解散した[26]。同交会は解散後親睦団体の後楽会に衣替えし[26]、さらに思斉会と改名した後[27]、戦後日本自由党結党の母体となった[28][29]。同じく正統派所属者でも久原派の議員は鳩山派の議員が主に参加した同交会を母体とする自由党の結党にも革新派・統一派の議員が主に参加した日政会を母体とする進歩党の結党にも参加せず[30]、敗戦した日本の政治家が自らの政治責任を明らかにしない中で政党の再建に進むことは妥当ではない[31]、寧ろ衆議院議員は敗戦の責任を負って総辞職すべきであるとの考えから護国同志会に所属していた議員や翼壮議員同志会に所属していた議員らとともに院内会派・無所属倶楽部の結成に参加した[31]



幹部人事



歴代総裁一覧





















































立憲政友会総裁
総裁 在任期間
1
Itô Hirobumi.jpg 伊藤博文
1900年(明治33年)9月 - 1903年(明治36年)
2
Kinmochi Saionji formal.jpg 西園寺公望 1903年(明治36年) - 1913年(大正2年)
3
Takashi Hara posing cropped.jpg 原敬
1914年(大正3年) - 1921年(大正10年)
4
Korekiyo Takahashi formal.jpg 高橋是清 1921年(大正10年) - 1925年(大正14年)
5
Giichi Tanaka posing cropped.jpg 田中義一 1925年(大正14年)4月 - 1929年(昭和4年)9月
6
Inukai Tsuyoshi cropped.jpg 犬養毅 1929年(昭和4年)10月 - 1932年(昭和7年)5月
7
Kisaburo Suzuki cropped.jpg 鈴木喜三郎 1932年(昭和7年)5月 - 1937年(昭和12年)2月




























立憲政友会総裁代行委員
総裁代行委員 在任期間
-
Ichiro hatoyama.jpg 鳩山一郎 1937年(昭和12年)2月 - 1939年(昭和14年)4月
Yonezo maeda2.jpg
前田米蔵
Toshio shimada.jpg
島田俊雄
Chikuhei nakajima.jpg
中島知久平
















立憲政友会総裁(中島派・革新派)
総裁 在任期間
1
Chikuhei nakajima.jpg 中島知久平 1939年(昭和14年)4月 - 1940年(昭和15年)7月
























立憲政友会総裁(久原派・正統派)代行委員
総裁代行委員 在任期間
-
Fusanosuke kuhara.jpg 久原房之助 1939年(昭和14年)4月 - 1939年(昭和14年)5月
Chuzo mituchi.jpg
三土忠造
Kenkichi Yoshizawa cropped.jpg
芳澤謙吉
















立憲政友会総裁(久原派・正統派)
総裁 在任期間
1
Fusanosuke kuhara.jpg 久原房之助 1939年(昭和14年)5月 - 1940年(昭和15年)7月


副総裁



  • 野田卯太郎 


幹事長




  • 原敬 (1900年(明治33年)12月19日 - 1900年(明治33年)12月22日)[32]


  • 末松謙澄 (1903年(明治36年)5月1日 - 1903年(明治36年)12月3日)[32]


  • 久我通久 (1903年(明治36年)12月3日 - 1904年(明治37年)3月31日)[32]

  • 原敬 (1904年(明治37年)3月31日 - 1905年(明治38年)3月1日)[32]


  • 菊亭修季 (1905年(明治38年)3月1日 - 1905年(明治38年)10月8日、在任中死亡)[32]


  • 児玉淳一郎 (1906年(明治39年)3月31日 - 1907年(明治40年)3月29日)[32]


  • 元田肇 (1907年(明治40年)3月29日 - 1908年(明治41年)3月28日)[32]


  • 長谷場純孝 (1908年(明治41年)3月28日 - 1908年(明治41年)12月24日)[32]


  • 杉田定一 (1908年(明治41年)12月24日 - 1910年(明治43年)3月15日)[32]


  • 伊藤大八 (1910年(明治43年)3月25日 - 1911年(明治44年)3月24日)[32]


  • 奥繁三郎 (1911年(明治44年)3月24日 - 1912年(明治45年)3月25日)[32]


  • 野田卯太郎 (1912年(明治45年)3月29日 - 1913年(大正2年)3月29日)[32]


  • 松田正久 (1913年(大正2年)3月29日 - 1914年(大正3年)3月5日、在任中死亡)[32]


  • 村野常右衛門 (1913年(大正2年)3月29日 - 1914年(大正3年)3月27日)[32]


  • 永江純一 (1914年(大正3年)3月27日 - 1915年(大正4年)5月15日)[32]


  • 小川平吉 (1915年(大正4年)5月15日 - 1916年(大正5年)3月1日)[32]


  • 江藤哲蔵 (1916年(大正5年)3月1日 - 1917年(大正6年)6月19日)[32]


  • 横田千之助 (1917年(大正6年)6月19日 - 1918年(大正7年)10月1日)[32]


  • 望月圭介 (1918年(大正7年)10月1日 - 1920年(大正9年)7月31日)[32]


  • 広岡宇一郎 (1920年(大正9年)7月31日 - 1922年(大正11年)3月27日)[32]

  • 横田千之助 (1922年(大正11年)3月27日 - 1922年(大正11年)6月15日)[32]

  • 望月圭介 (1922年(大正11年)6月15日 - 1924年(大正13年)2月1日)[32]


  • 岩崎勲 (1924年(大正13年)2月1日 - 1925年(大正14年)4月1日)[32]


  • 前田米蔵 (1925年(大正14年)4月1日 - 1926年(大正15年)3月27日)[32]


  • 鳩山一郎 (1926年(大正15年)3月27日 - 1927年(昭和2年)4月16日)[32]


  • 山本条太郎 (1927年(昭和2年)4月16日 - 1927年(昭和2年)7月19日)[32]


  • 秦豊助 (1927年(昭和2年)7月19日 - 1928年(昭和3年)5月25日)[32]


  • 島田俊雄 (1928年(昭和3年)5月25日 - 1929年(昭和4年)4月28日)[32]


  • 森恪 (1929年(昭和4年)4月28日 - 1931年(昭和6年)3月29日)[32]


  • 久原房之助 (1931年(昭和6年)3月29日 - 1932年(昭和7年)3月27日)[32]


  • 山口義一 (1932年(昭和7年)3月27日 - 1934年(昭和9年)3月27日)[32]


  • 若宮貞夫 (1934年(昭和9年)3月27日 - 1935年(昭和10年)3月28日)[32]


  • 松野鶴平 (1935年(昭和10年)3月28日 - 1936年(昭和11年)5月28日)[32]


  • 安藤正純 (1936年(昭和11年)5月28日 - 1937年(昭和12年)5月11日)[32]

  • 松野鶴平 (1937年(昭和12年)5月11日 - 1938年(昭和13年)3月28日)[32]


  • 砂田重政 (1938年(昭和13年)3月28日 - 1939年(昭和14年)5月1日)[32]

  • 政友会革新派 田辺七六 (1939年(昭和14年)5月 - 1940年(昭和15年)3月)[32]

  • 政友会革新派 東郷実 (1940年(昭和15年)3月 - 1940年(昭和15年)7月)[32]

  • 政友会正統派 岡田忠彦 (1939年(昭和14年)5月 - 1940年(昭和15年)7月)[32]



総務委員



  • 伊藤総裁期

    • 西園寺公望、渡辺国武、金子堅太郎、末松謙澄、林有造、原敬、星亨、尾崎行雄、松田正久など[33]


  • 西園寺総裁期

    • 松田正久、原敬、大岡育造、元田肇、杉田定一、川原茂輔、横田千之助、中村啓次郎、三土忠造、小坂順造、望月圭介など[33]

    • (協議員:原敬、尾崎行雄、松田正久、末松謙澄)[33]

    • (幹事:村野常右衛門、野田卯太郎、粕谷義三、松田源治、小川平吉)[33]



  • 原総裁期
    • 元田肇、大岡育造、奥田義人、高橋是清、岡崎邦輔、山本達雄、床次竹二郎、中橋徳五郎、小川平吉、山本悌二郎など


  • 高橋総裁期
    • 野田卯太郎、岡崎邦輔、山本悌二郎、床次竹二郎、川原茂輔、小川平吉、三土忠造、元田肇、中橋徳五郎、富安保太郎など[33][34]


  • 田中総裁期
    • 望月圭介、山本条太郎、浜田国松、若尾璋八、秋田清、三土忠造、山本悌二郎、小泉策太郎、山口恒太郎、菅原伝、川原茂輔、秦豊助、東武、磯部尚、木下成太郎、広瀬為久、田辺熊一、松浦五兵衛、中村巍、若宮貞夫、河上哲太、富安保太郎など[33][35]


  • 総裁空位・森恪幹事長期

    • 高橋光威、宮古啓三郎、松本孫右衛門、匹田鋭吉、山口義一、島田俊雄、高山長幸、松野鶴平[33]


  • 犬養総裁期
    • 高橋光威、島田俊雄、松野鶴平、山本悌二郎、鳩山一郎、山崎達之輔、秋田清、内田信也、金光庸夫、熊谷直太、瀧正雄、森恪、八田宗吉、植原悦二郎、加藤久米四郎、岡田忠彦、津雲国利、山崎猛、牧野良三など[33]


  • 鈴木総裁期

    • 久原房之助、浜田国松、中島知久平、島田俊雄、山崎達之輔、松野鶴平、安藤正純、内田信也、金光庸夫、田子一民、田辺七六、青木精一、熊谷巌、岡田伊太郎、田辺熊一、清水銀蔵、河上哲太、土井権大、東郷実、村田虎之助、今井健彦、志賀和多利、木下成太郎、中谷貞頼、東武、高橋熊次郎、高見之通、加藤久米四郎、山口義一、岡田忠彦、野田俊作など[33]


  • 総裁代行委員期
    • 松野鶴平、安藤正純、砂田重政、金光庸夫、堀切善兵衛など[33]


  • 分裂期 革新派

    • 川島正次郎、田子一民、宮澤裕、山崎達之輔[33]


  • 分裂期 正統派
    • 安藤正純、植原悦二郎、若宮貞夫、松野鶴平など[33]




最高顧問



  • 榊田清兵衛 


脚注


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  1. ^ 但し中立派は少数で、実質的には多数を占める革新派と正統派の並立状態であった。


  2. ^ 犬養によって「平和の精神と平和の行為とを以て四方に発展し、如何なる弱国に対しても断じて武力に頼らず、断じて侵略を野心を挟まず、平和なる商人、平和なる工人、平和なる農民として四隣を闊歩し、以て世界同胞の実を挙げんと欲するものである」と宣言された党の指導精神である[14]


  3. ^ 例えば第3次伊藤内閣の際に伊藤は政府党の結成を試みたが[18]、元老山縣有朋や政府内から反対があったり、財界も積極的ではなかったためこれを断念、内閣総辞職に至っている[19]


  4. ^ のちにいったん復党して護憲運動で活躍するが、再び党幹部と対立して離党している。


  5. ^ 安井は中国銀行前身会社の一つの岡山貯蓄銀行創立者(立身致富信用公録、近代デジタルライブラリー)。なお3名は異議を申立てた(帝国議会議事録、国立国会図書館 )。


  6. ^ 当時華族の当主には衆議院議員の被選挙権がなかった。


出典



  1. ^ ab宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、978頁。ISBN 4-06-203994-X。

  2. ^ ab大辞林 第三版 コトバンク. 2018年9月13日閲覧。

  3. ^ abRikken Seiyūkai political party, Japan. (英語) Britannica.com. 2019年3月18日閲覧。


  4. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンク. 2018年9月13日閲覧。


  5. ^ 井上 2012, p. ii


  6. ^ 井上 2012, p. 112

  7. ^ ab井上 2012, p. 7


  8. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 中央新聞 コトバンク. 2018年10月4日閲覧。

  9. ^ ab百科事典マイペディア コトバンク. 2018年10月4日閲覧。


  10. ^ デジタル大辞泉 - せいゆう-かい〔セイイウクワイ〕【政友会】 コトバンク. 2018年9月13日閲覧。

  11. ^ abcd季武嘉也・武田知己編 『日本政党史』 吉川弘文館、2011年、94-95頁。ISBN 978-4-642-08049-1。


  12. ^ 井上 2012, p. i

  13. ^ ab井上 2012, p. 4

  14. ^ ab井上 2012, pp. 107-108


  15. ^ 井上 2012, p. 11


  16. ^ 井上 2012, p. 83


  17. ^ 阿部恒久. 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンク. 2019年3月18日閲覧。


  18. ^ 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、979頁。ISBN 4-06-203994-X。


  19. ^ 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、974頁。ISBN 4-06-203994-X。


  20. ^ 井上 2012, p. 5


  21. ^ 望月和彦「大正デモクラシー期における政権再編」2010年(『桃山法学』第15号)

  22. ^ ab『昭和の政党』、356-357頁。

  23. ^ ab『占領と民主主義』、98-99頁。

  24. ^ ab『昭和の政党』、394頁。


  25. ^ 『昭和の政党』、394-395頁。

  26. ^ abc『昭和の政党』、395頁。


  27. ^ 『昭和の政党』、396頁。


  28. ^ 『昭和の政党』、392頁、399頁。


  29. ^ 『占領と民主主義』、99-100頁。


  30. ^ 第八八、八九回帝国議会 貴族院・衆議院解説

  31. ^ ab『戦時議会史』、538-539頁。

  32. ^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyzaaabacadaeafagahaiajakalam『日本官僚制総合事典 1868-2000』

  33. ^ abcdefghijkl村川一郎編『日本政党史辞典 下』2000年、国書刊行会


  34. ^ 總選擧に面して大阪朝日新聞記事 1924年(大正13年)2月2日


  35. ^ 現内閣を攻める時期は既に過ぎ去った大阪朝日新聞記事 1927年(昭和2年)4月17日




参考文献




  • 井上寿一 『政友会と民政党:戦前の二大政党制に何を学ぶか』 中央公論新社〈中公新書〉、2012年。ISBN 978-4-12-102192-2。 


  • 奥健太郎 編 『昭和戦前期立憲政友会の研究 党内派閥の分析を中心に』 慶應義塾大学出版会、2004年(平成16年)7月30日、ISBN 978-4-7664-1092-1。


  • 粟屋憲太郎 著 『昭和の政党』(文庫版 昭和の歴史 第6巻)小学館、1988年(昭和63年)11月1日、ISBN 4-09-401106-4。


  • 神田文人 著 『占領と民主主義』(文庫版 昭和の歴史 第8巻)小学館、1989年(昭和64年)1月1日、ISBN 4-09-401108-0。


  • 中谷武世 著 『戦時議会史』民族と政治社、1974年(昭和49年)。


  • 秦郁彦 編 『日本官僚制総合事典 1868-2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)11月、ISBN 978-4-13-030121-3。



関連文献




  • 立憲政友会史 第1巻: 伊藤総裁時代 - Google ブックス(立憲政友会史編纂部、1924年)


  • 立憲政友会史 第2巻: 西園寺総裁時代:前編 - Google ブックス(立憲政友会史編纂部、1924年)


  • 立憲政友会史 第3巻: 西園寺総裁時代:後編 - Google ブックス(立憲政友会史出版局、1925年)


  • 立憲政友会史 第4巻: 原総裁時代 - Google ブックス(立憲政友会史出版局、1926年)


  • 立憲政友会史 第5巻: 高橋總裁時代 - Google ブックス(立憲政友会史編纂部、1933年)


  • 立憲政友会史 第6巻: 田中総裁時代 - Google ブックス(立憲政友会史編纂部、1933年)


  • 立憲政友会史 第7巻: 犬養総裁時代 - Google ブックス(立憲政友会史編纂部、1933年)



関連項目




  • 交友倶楽部 - 原敬らの画策により結成された貴族院の政友会系会派。実質的に貴族院における政友会の別働隊となった。


  • 中央新聞 - 政友会系の新聞。政友会によって買い取られ、事実上の政友会機関誌として編集されていた。

  • 立憲政友会本部放火事件










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