スポーツカー (モータースポーツ)
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スポーツカー (フランス語 Voiture de Sport、英語 Sports Car) は、モータースポーツ用に企画、開発、製造される2座席の自動車である。ホイールがボディのフェンダー部に覆われており、方向指示器や夜間走行用の灯火類(前照灯・尾灯)などを備えるなど、公道運用に必要な形態を有している。
同義語として「プロトタイプ・スポーツカー」または「スポーツプロトタイプカー」(いずれも翻訳元のフランス語ではボワチュールドスポール・プロトティペ)、「グランドツーリング・スポーツカー」、「スポーツレーシングカー」がある。また個別レースやレースシリーズにおいては「スポーツ (S)」、「グランドツーリング・プロトタイプ (PまたはGTP)」、または単に「プロトタイプ」などと呼ばれる。
以下、断りなき場合、「スポーツカー」とは競技用に製造されたレーシングカーを指す。
目次
1 概要
2 マシンの変遷
3 代表的なスポーツカーのレース
3.1 現在開催されているレース
3.2 過去開催されていたレース
4 ヨーロッパ
4.1 1950年代まで
4.2 1960年代
4.3 1970年代
4.4 1980年代
4.5 1990年代
4.6 2000年代
4.7 2010年代
5 アメリカ
5.1 1950年代
5.2 1960年代
5.3 1970年代
5.4 1980年代
5.5 1990年代
5.6 2000年代
5.7 2010年代
6 日本
6.1 1960年代
6.2 1970年代
6.3 1980年代
6.4 1990年代
6.5 2000年代
6.6 2010年代
7 注釈
8 出典
9 参考文献
10 関連項目
概要
ホモロゲーション(同型の車輛を規定数以上量産して市販しなければならない、という規制)は無い、または無いに等しく、公道走行に必要とされる制限に似た規程が一応あることもあるものの、ほぼレース専用の高性能な車両設計が認められている。そこから転じて、スポーツカーレース以外でも「ベースとなる市販車が存在しないレース専用車」という意味でしばし使われる。
スポーツカーは位置付けとしては、フォーミュラカーと、いわゆる「ツーリングカーレース」に使用されるような市販車の面影があるレーシングカーとの中間的な位置にある。使用目的は競技用であるが、カテゴリが成立した経緯から「将来的には公道走行が可能な乗用車として市販されることを前提にして、開発テストのためレースに出ている」という建前がある。そのため、多くの場合は助手席を持ち[注釈 1]、公道走行用の安全装備(ヘッドライト、テールライト、ブレーキランプ)を標準装備し、場合によってはトランクスペースやスペアタイヤの設置が義務付けられる場合もある。実際にスポーツカーの発展形が乗用スポーツカーとして市販される例もあったが、現在では事実上「競技専用2座席レーシングカー」という意味になっており、2個目の座席はフォーミュラカーがタイヤをむき出しにしているのと同様、スポーツカーの遺伝子として「形式的」なものになっている。ただし例外として、富士グランチャンピオンレース(富士GC)やIMSAのPCライツのように、フォーミュラカーにカウルを被せただけのタイプは単座の場合もある。
座席以外の構造的な特徴としては、スポーツカーは屋根付き(クローズド)・屋根無し(オープントップ)の両方が存在する点が挙げられる。エンジン搭載位置は黎明期を除いて基本的にはミッドシップであるが、パノスLMPロードスターや日産・GT-R LM NISMOのように現代でも稀にフロントエンジンのマシンも登場する。またフォーミュラカーは前後ウィングなどのエアロパーツによって、どちらかといえば大きなダウンフォースを得る方向性であるのに対し、スポーツカーは燃費向上やバックマーカー(周回遅れ)処理、サルト・サーキットやデイトナ・インターナショナル・スピードウェイのロングストレートで速く走るためなどの理由から、どちらかといえばボディ全体の凹凸を抑えてドラッグを減らしつつ、リフトを抑える方向性の形状となっている。
フォーミュラカーのレースは短距離・短時間で行われるスプリントレースが多く、スポーツカーのレースは比較的長距離・長時間で行われる耐久レースが多い[注釈 2]。フォーミュラカーは敏捷な運動性能を得るために軽量化を徹底して追求しているが、スポーツカーは人もマシンも長距離走行のストレスに耐えられることが重視される。また耐久レースではもし故障があっても、その箇所を素早く修理・交換できれば挽回が可能なことも多いため、メンテナンス性も重要である。
1960年代以降は、ドライバー・独立系コンストラクター中心のフォーミュラカーに対して、スポーツカーは自動車メーカーが鎬を削る場として注目を集めたが、1990年代からF1が興行的成功を見ると一転して参加メーカーは減少し、逆にメーカー間の競争が激化したF1や、ダラーラの総独占状態となった下位フォーミュラから独立系コンストラクターが多数スポーツカーレースに流入している。
2018年現在はLMP(ル・マン・プロトタイプ)が世界中で多数派となっており、各チームが自由に開発するLMP1、ACOが指定した幾つかの独立系コンストラクターが一定のコスト規制のもとに開発・プライベーターに販売するLMP2及びLMP3というピラミッド構造になっている。またアメリカのIMSAではLMP2をメーカーが改造するDPi(デイトナプロトタイプ・インターナショナル)が存在し、多数のメーカーの興味を惹いている。日本ではアジアン・ル・マン・シリーズが年1、2戦行われている他、富士スピードウェイでドライバーの育成とファンのモータースポーツへの触れ合いを目的としたインタープロトシリーズ、軽自動車をスポーツカーに改造するK4-GPなどが開催されている。
マシンの変遷
1960年代までのボディデザインは市販スポーツカーと同じく丸みを帯びた流線型であった。1960年代に入るとフロントエンジン (FR) に代わってミッドシップが主流になり、薄いノーズからフェンダーや半球形のルーフが盛り上がる抑揚のあるデザインに変化した。全長6 kmのストレートを持つル・マン24時間レースでは、直進走行安定性を改善するためロングテールや垂直フィンが装着された。1960年代末には大型リアウィングが登場し、ボディ上面をスロープ状に成形したくさび形(ウェッジシェイプ)ボディが流行した。
1970年代になると、ポルシェが先鞭をつけたターボエンジンが普及し始める。1970年代末にF1でグラウンド・エフェクト・カーが考案されると、スポーツカーも車体下面を後方に向けて跳ね上げるデザインが導入された。
1980年代に参戦したグループC規定のマシンは、最高速が伸びるよう空気抵抗の少ないクローズドカーとすることがレギュレーションで決められていた。グループC規定が廃止された1990年前半もその状況は変わらなかったが、それまで平面だったフロントトレッド内部のボディワークにスポイラーやノーズを与え、空力性能を高める工夫が見られた。
ル・マンにオープンボディのマシンの参戦が目立つようになったのは1990年代終盤である。クローズドカーとオープンカーにそれぞれ車両規定が設けられ、クローズドカーはより大きなリストリクタープレートを装着できる反面、より細いタイヤを使用しなければならないことになった。このレギュレーションがオープンカーに有利に働くことになり、2000年代前半には参戦車両、表彰台獲得車両ともにオープンカーがほとんどを占めるようになった。
2000年代後半にはレースを主催するフランス西部自動車クラブ (ACO) がクローズドカーの開発を促進することを発表したが、状況に大きな変化はなく、クローズドカーは少数派のままであった。しかし2010年代にレギュレーション変更によって排気量が5.5Lから3.7Lへと30%以上縮小されたことで、性能を維持・向上するためにクローズドカーを開発するメーカー、チームが増加した。その後オープンカーはコスト重視のLMP2クラスに多く存在していたが、安全意識の高まりから2016年をもってル・マンにおけるオープンカーは完全に廃止された。またデイトナ24時間でも2017年まででオープントップのLMPCクラスが廃止された上、プロトタイプ・ライツもクローズドのLMP3に取って代わられた。そのため、ヒルクライムのグループCN程度にしかオープントップは見られなくなった。
全長6kmのミュルサンヌ・ストレートにシケインが2つ設けられ、最高速がそこまで重視されなくなった現在のLMP(ル・マン・プロトタイプ)は、フォーミュラカーのようなハイノーズを採用して、フロントからサイドへ空気を抜いてダウンフォースを増強するデザインが普及している。また、環境保護や省エネルギー思想に配慮し、ディーゼルエンジンやハイブリッドといった環境技術の導入が奨励されている。
代表的なスポーツカーのレース
現在開催されているレース
- FIA/ACO
FIA 世界耐久選手権(WEC)
- ル・マン24時間
ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ(ELMS)- アジアン・ル・マン・シリーズ(AsLMS)
- アジアン・ル・マン・スプリント・シリーズ
- IMSA
- ユナイテッド・スポーツカー選手権(USCC)
- デイトナ24時間
- セブリング12時間
- IMSA プロトタイプ・ライツ
- ユナイテッド・スポーツカー選手権(USCC)
- 日本
- インタープロトシリーズ
過去開催されていたレース
国際自動車連盟 (FIA)
スポーツカー世界選手権 (Championnat du Monde des Voitures de Sport) 1953年~1961年
グランドツーリング製造者世界選手権 (Championnat du Monde des Constructeurs Grand Tourisme) 1962年~1965年/プロトタイプ国際トロフィー (Trophee Internationale des Prototypes) 1963年~1965年 (1962年はスポーツカータイトルなし)
スポーツカー国際選手権 (Championnat Internationale des Voitures de Sport) /製造者国際トロフィー (Trophee Internationale des Constructeurs) 1966年~1967年
メイクス国際選手権 (Championnat Internationale des Marques) 1968年~1971年
メイクス世界選手権 (Championnat du Monde des Marques) 1972年~1975年 (特殊プロダクションカーにより1980年まで継続)
スポーツカー世界選手権 (Championnat du Monde des Voitures de Sport) 1976年~1977年
スポーツカー欧州選手権 (Championnat d'Europe des Voitures de Sport) 1978年
世界耐久選手権 (Championnat du Monde d'Endurance / World Endurance Championship) 1981年~1985年
世界スポーツプロトタイプ選手権 (Championnat du Monde Sport Prototypes / World Sports Prototype Championship) 1986年~1990年 (1989年から英語に統一し略称WSPC採用)
FIAスポーツカー世界選手権 (FIA Sportscar World Championship) 1991年~1992年 (略称SWC)
FIAグランドツーリング選手権 (FIA Grand Touring Championship) 1997年~1998年 (略称GTC)
スポーツレーシングワールドカップ (Sports Racing World Cup) 1999年~2000年 (FIA認定シリーズ)
FIAスポーツカー選手権 (FIA Sportscar Championship) 2001年~2003年
- ACO
ル・マン耐久シリーズ(LMES)
ル・マン・シリーズ(LMS)
インターコンチネンタル・ル・マン・カップ(ILMC)- フォーミュラ・ル・マン・カップ
- IMSA
- IMSA-GT選手権
アメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)- SCCA
カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(CAN-AM)- ロレックス・スポーツカー選手権(グランダム・ロード・レーシング)
JAF
- 日本グランプリ
- 日本CAN-AM
- 富士グランチャンピオンレース
全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)
全日本スポーツカー耐久選手権(JLMS)
ヨーロッパ
1950年代まで
1939年のル・マン24時間レースまでの、戦前のル・マン24時間レースでは出場する自動車は市販車としてカタログに載せられている必要があった[1]。1945年に第二次世界大戦が終わったものの1949年のル・マン24時間レース開催に当たって未だイギリスやフランスが社会的経済的に疲弊しており台数が集まらず、このため主催者のフランス西部自動車クラブが「公認されたメーカーが製造し、所属する国のレース統括団体の確認を受ければ、市販を前提に設計中または計画中のスポーツカーでも出場できる」「灯火類を始め、フロントガラスやトランクスペース、スペアタイヤ等の装備を義務づける」という車両規定を新設し台数の確保を図ったのが、このカテゴリの始まりである[1]。当初は「設計中または計画中」だったスポーツカーを将来多くのメーカーが生産するようになれば車両規則から削除される予定であった[1]。
1960年代
「設計中または計画中」の建前で有力メーカーが多額の費用を使ってレース専用車を作るようになり、車両の高性能化が進んだ[1]。これは当時のフォーミュラ1(F1)が1960年に1,500ccを上限とするなど排気量制限をして馬力競争やスピード競争に歯止めがかかり、スポーツカーの方がはるかに高速化してル・マン24時間レースが魅力のあるレースとして有名になる一つの理由となった[1]。
しかしル・マン24時間を含む製造者国際トロフィーで大排気量のフォードが常勝する様になると、選手権では1968年から第11クラス(エンジン排気量2.5 L超から3.0 L)が出走資格の上限クラスになった。
1970年代
1972年には再び大きな規定変更があり、アルファロメオ・33 T3、F1エンジンを搭載したマトラ・MS670などのオープントップのマシンがル・マンで優勝争いを繰り広げた。
1976年からはFIAグループ5、いわゆるシルエットフォーミュラと呼ばれる量産車を大幅に改造した車両とオープン2シーターのグループ6カーが優勝を争うようになる。グループ6カーではポルシェとルノー・アルピーヌが激闘を繰り広げ、1976年のポルシェ・936優勝はターボ車初のル・マン優勝となった[2]。
1980年代
1982年には国際自動車連盟 (FIA) の車両規定の改正が行われ、それまでのグループ6という分類からグループCという分類に変更された(これが「Cカー」の語源となっている)。それらの車で争われるレースシリーズは、主にヨーロッパを中心に行われ、世界耐久選手権(WEC、1982年~1985年)や世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC、1986年~1990年)といった世界選手権に発展した。当時のレギュレーションは、一レースあたりの燃料総使用量規制がメインで、エンジン形式に関する規制は事実上存在しなかった。そのため、世界中の自動車メーカーが様々なエンジンを用いて各レースの舞台でしのぎを削っていた。特に予選では、ターボエンジン搭載車による過給圧を極端に高めたアタックが行われた(一説には1,500馬力以上出ていたと言われている)。エンジンの高性能化と燃費規制による電子制御技術、車体の新素材(C-FRP)の応用と空力技術の研究が必須となり高度な技術と多額の開発資金が必要となり、参戦コストがそれまでに比べて急激に高騰した。
1990年代
1991年にはWSPCがスポーツカー世界選手権 (SWC) に衣替えしたが、SWCにおいてはエンジンの規定が当時のF1と同一の3,500ccNAのみとされたことにより、高回転までエンジンを回しても丈夫で24時間走れる高い耐久性を持ち、かつ小排気量から大パワーを出すことのできるエンジンを開発しなければならなくなった。これによって、今までの技術が転用できなくなったため、理不尽なレギュレーション変更と開発資金の兼ね合いから撤退するメーカーが出た。資金のないプライベーター(特にポルシェのマシンを走らせていたチーム)が次々と撤退。また、F1に移行するメーカーが出たことなどが原因でエントラントが激減(そのため、F1のエントラントが急激に増え予備予選が必要となった)、SWCは1992年一杯で消滅、グループC規定のレースは1993年のル・マン24時間レースで終焉を迎えた。
スポーツカーはこのときヨーロッパでは消滅し、1994年からは耐久レースはGTによる耐久レースシリーズとしてBPRグローバルGTチャンピオンシップが発足する。1994年、実業家ステファン・ラテルを中心に主にポルシェ車のドライブで活躍した元レーシングドライバーのユルゲン・バース、フランス人でイベントのオーガナイザーをつとめるパトリック・ペーター3人の尽力により、乗用のクーペ型スポーツカーをグランドツーリングカー (GT) と位置付けたレースを創設。創設者3人の名前の頭文字をとって名づけられたBPRが、スポーツカー・レースの最高峰クラスとしてとってかわり、その地位を確立。プライベーター選手権ではあるがヨーロッパ全土でGTレースのカテゴリが明確なものとなった他、このシリーズは大きな人気を博す。シリーズは世界中の有名サーキットを転戦、グリッドには錚々たるスポーツカーが並んだ。
一方、1994年のル・マン24時間レースは、BPRで走行していたGTカーとは別物である、ダウアー・962LMポルシェが「グランドツーリング・スポーツカー」として登場している。しかし、そのマシンの中身はスポーツカーとしてそれまでル・マンに参戦していたポルシェ・962に、欧州の規定にあわせて保安部品をつけたという手法をとったマシンであった。これは、GT1のレギュレーションで、最低1台公道を走行可能な車両を生産すればよいという規定をうまく利用した結果によるものである。この手法が取られた理由は、プロトタイプクラスに出場するよりもリストリクターが大きくでき、馬力がより出せるなどの利点があったためといわれている。そしてこのマシンは批判を受けながらも同年のル・マン24時間レースで優勝した。
次の年、1995年のル・マン24時間レースでは抜け穴を使ったマシンは登場せず、最高峰クラスはBPR仕様のマシンの出走がなされたが、1996年のル・マン24時間レースにはGTマシンのクラスの一つであるGT1に事実上のスポーツカーであるポルシェ・911 GT1が登場し、翌1997年にはポルシェ・996のフロントマスクをまとったポルシェ・911 GT1が再びGTカテゴリーに登場した。また、同年のル・マンには日産・R390、(BPRシリーズが発展するかたちでこの年スタートした)FIA GT選手権にはメルセデスベンツ・CLK-GTRなど、レギュレーション上はGTマシンであるが事実上のスポーツカーとして姿を現した。
1998年には、GT1クラスのトップマシンは事実上のスポーツカーばかりとなり、この年からカーボンモノコックになったポルシェ・911 GT1 Evo、トヨタ・GT-One TS020、メルセデスベンツ・CLK-LM、日産・R390などの顔ぶれとなった。
1999年に大幅なレギュレーション改定が行われ、GTクラスには「名ばかりのGTマシン」が参戦できなくなり、LMGTP(クローズドプロトタイプマシン)とLMP900(オープンプロトタイプマシン)という新たなクラスが開設された。1999年ル・マンのLMGTPクラスには、メルセデス・CLRや前年に参戦したトヨタGT-Oneの改良型が参戦した。
「GT」と言う名のスポーツカーばかりでなく、グループC消滅後の1995年からは、WSC(ワールド・スポーツカー)と呼ばれるオープントップスポーツカーも登場した。後述のとおり、アメリカでは1993年一杯でIMSA-GTPが廃止され、1994年からこのWSCが導入された。ル・マンでも同年にLM-WSCとして導入されるが、IMSAとの違いはターボエンジンの参加を認めたことである。
その後同クラスのポルシェ車はトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)のシャシーに3,000ccフラット6のターボエンジンを搭載したポルシェ・WSC95がヨースト・レーシングから参加。これは本来1995年のデイトナ24時間レースに参加すべくポルシェワークスが開発したものであるが、ターボの規制の強化で参加を断念、その後ヨーストに放出されたマシンであった。しかしワークス・チームで出走したの911GT1を破り1996年、1997年とル・マンを連覇する。
1998年にはBMWがウィリアムズと提携しオープントップスポーツカーとしてBMW V12 LMRを開発、1999年ル・マンで優勝を飾っている。また日産も日産・R391を開発しル・マンに参戦した。
IMSAでWSC規定が導入された1994年以降、プライベーターに販売されたフェラーリ・333SPやR&Sといったオープントップスポーツカーがチャンピオン争いをしており、これに興味を持ったプライベーターが中心となり1997年、「インターナショナル・スポーツカー・レーシング・シリーズ」(ISRS)が誕生した。しかしアマチュアプライベーター中心で、決して興行的に魅力あるものではなかった。
1999年、もはや「GT」と呼べないGT1をFIA-GT選手権から切り離し、FIAはこれらクローズドカー(メルセデス、トヨタ)とプライベーターのオープンカーを対象にした新選手権「国際スポーツプロトタイプカー選手権」(IPC)を企画した。シリーズの半分はGT選手権との混走の耐久レース、残り半分はスポーツカーのみによるスプリントレースと、実現すれば興味深い企画だったが、メルセデス・トヨタの参加が実現せず結局キャンセルされた。FIA-GT選手権は本来の「GT」カーのみで継続された。IPCを断念したFIAはISRSにFIAカップを与え「スポーツカー・レーシング・ワールド・カップ」(SRWC)と改称するが、依然として興行的な成功を見いだせないものであった。
2000年代
1999年、北米でル・マン24時間レースと同じレギュレーションのアメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)がスタートした。翌2000年は北米大陸を飛び出し、シルバーストン、ニュルブルクリンク、アデレードでも開催され、アウディ、BMW、GMの3ワークスが参戦する事実上の世界選手権に成長した。しかし翌2001年には北米大陸のみのシリーズに戻った。同時に欧州ではヨーロピアン・ル・マン・シリーズ(ELMS)がスタートするも、参加台数が集まらずわずか1年で終了した。一方SRWCは2001年、FIA スポーツカー選手権(FIA-SCC)と改称し、FIA直轄となった。「世界」の文字は入らないが、1992年終了のSWC以来のFIAスポーツカー選手権の復活である。このレースには日本の童夢・S101も参戦した。しかし同シリーズはSRWC時代からと同様、マシンの販売価格も決められていたなどプライベーター中心のレースで興行的魅力は相変らず薄く、大した盛りあがりもないままわずか3年で終了することになった。
FIA-SCCは終了したが、2004年からはニュルブルクリンク、スパ・フランコルシャン、モンツァ、シルバーストンで伝統の1000km耐久レースを復活させた「ル・マン耐久シリーズ」(2006年からル・マン・シリーズ=LMSに改称)が開催された。ル・マン・シリーズはその名のとおりル・マンと同じレギュレーションで行われる耐久シリーズで、上位チームにはル・マン参加権がシードされた。毎戦40台以上もエントリーを集める盛況な状況であった。また2009年にはAsLMS(アジアン・ル・マン・シリーズも誕生した。メーカー競争の激しくなったF1が、開発競争をしたい独立系コンストラクターには障壁が高くなりすぎたこともあり、徐々にスポーツカーの世界選手権復活の兆しが見えてきた。
2010年代
2010年、ACOはLMS(シルバーストン)、ALMS(プチ・ル・マン)、そして珠海1000kmレースの3戦から成るインターコンチネンタル・ル・マン・カップ(ILMC)をスタートさせた。世界選手権復活への第一歩と言えた。ILMC翌2011年はル・マン24時間レースを含む全7戦のシリーズとなり、アウディ、プジョー、アストンマーティンのワークス参戦で、事実上の世界選手権の復活と言えた。そして2011年6月3日、FIAとACOは2012年よりFIA 世界耐久選手権(WEC)を開催することを発表した。1992年SWC崩壊以来、20年ぶりのスポーツカーの耐久世界選手権の復活である。また同年にヨーロピアン・ル・マン・シリーズも復活している。
開催初年度はル・マン24時間レースを含む全8戦が開催され、アウディがハイブリッド車で初代王者に就いた。プジョーの開幕前の電撃撤退があったものの、トヨタもハイブリッド車でワークス参戦し、3勝を上げるなどまずまずの好成績を残した。
LMP1ハイブリッド規定は燃料流量を規定し、エンジン形式や回生など極めて自由度が高く、グループCの再来と言われた。またル・マンに特別に設けられた「ガレージ56枠」にはデルタウィングやシリーズ式ハイブリッド車の日産・ZEOD RC、手足の無い人でもドライブできるLMP2マシンなど、未来への技術の提案をする車両が参戦している。
こうした技術開発は複数のメーカーの興味を引き、2014年にはポルシェ、2015年には日産も加わって4ワークスによる盛り上がりを見せた。しかし日産はル・マンにFFマシンのGT-R LM NISMOを一戦参戦させたのみで撤退、アウディとポルシェはフォルクスワーゲングループの「ディーゼルゲート」の煽りで撤退してしまう。現在プロトタイプクラスでは、唯一WEC開幕の2012年から参戦し続けているトヨタだけが参戦を継続している。
一方プライベーターの人気は安定して高く、WEC・ELMS・AsLMSのLMP2とLMP3には多数のチームが参加しており、フォーミュラカーやGTからも多数の転向チームがいる。またLMP1はメーカー優遇もあって2014年以降プライベーターは1〜2チームのみになっていたが、トヨタ一社のみになったことで規約の偏りが解消された2018年には、5チームものプライベーターが大挙している。
アメリカ
アメリカでの自動車は、運搬手段としてのトラック/移動手段としての大衆車が主であった。それらを道具として遊ぶ競技は存在したが、職業としてのオートレーシングは、広い荒野を切り開いたダートオーバルコースを舞台としたオープンホイールとストックカーに限定されていた。そのため、スポーツカーやロードコースという発想は1950年代まで登場しなかった。しかしそれ以降は欧州組の参戦もあり、多くのエントラントを集めるカテゴリとなった。
アメリカで有名なスポーツカーレーシング選手権名は、カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am)、IMSA、アメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)、グランダム・ロード・レーシング(GARRA)、ユナイテッド・スポーツカー選手権(USCC)などがある。
1950年代
1948年に東海岸ニューヨーク州ワトキンスグレンの公道でアメリカ初の本格的ロードレースが開催された。
1952年にフロリダ州セブリング飛行場で12時間レースがスポーツカー・クラブ・オブ・アメリカ(SCCA)の主催で開催された(現在のセブリング12時間レース)。
翌1953年には「世界スポーツカー選手権」が開始されるとその一戦としてセブリング12時間レースが組み込まれた。ヨーロッパのワークスチームは、これを機に大西洋を渡り始めた。SCCAの基本方針は、アマチュアレースの振興育成であった。そこで プロとして生計を立てたい人間は、ヨーロッパのワークスチーム入りを目指すようになった。
50年代後半には、西海岸のカリフォルニア州のラグナ・セカやリバーサイドのロードコースが開設。マシンやドライバー層が厚くなり、集客が可能となって1958年からオープンホイール専門のUSACがプロ選手権を開催して、アメリカのロードレースのプロ化が始まる。
1960年代
1958年からUSACはプロ選手権を開始したものの、1962年に消滅する。60年代初頭、レーシングカー全般にわたりフロントエンジンからミッドシップへと変換する技術的革新期であった。大きくて重いアメリカンV8をフロントに搭載したアメリカ製スポーツカー群を、小さくて軽い英国製ミッドシップスポーツカー群が追い詰め追い越すようになった。
1963年にSCCAがプロ化路線に転向して、国内選手権のユナイティッドステーツ・ロードレーシング選手権(USRRC)を開始した。このレースは、ラグナ・セカやリバーサイドを舞台とした単発のプロスポーツカーレースを毎年10月に開催して、秋に開催されるF1のアメリカGPとメキシコGPに参戦するF1チームの面々が北米で過ごす合間に参戦を開始するようになった。F1チームの面々にとっては、高額賞金(F1より高い賞金)に加え好成績を獲得するとアメリカでの知名度向上が可能となる魅力があった。特に英国のコンストラクターにとって、アメリカは未開拓で前途洋々な市場に見えた。ブルース・マクラーレンは、当時所属していたクーパーから独立の準備を始め、ローラやロータスもアメリカ進出を推し進めるようになった。一方アメリカからは、フォードがヨーロッパのスポーツカーレース(特にル・マン24時間レース)の制圧を目指して本格挑戦を開始し、1966年~1969年に念願のル・マン24時間で4連勝を達成するようになった。
1966年には、国際格式のカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am)が毎年9~11月開催の6戦のシリーズ戦で誕生した。排気量無制限2座席レーシングスポーツカーレース(FIA車両規定:グループ7)で高額賞金が掲げられた。開催時期は、ヨーロッパ勢が参加しやすいように配慮されていた。
1969年には、USRRCがCan-Amシリーズに吸収されて消滅する。USRRCは、ヨーロッパからのアメリカ進出と地元アメリカ勢の成長という下地を育成することになり、発展的解消ともいえる。Can-Amは、この年から6月~10月の期間に10戦のシリーズとして開催されるようになった。
Can-Amシリーズの初代チャンピオンは、ローラで参戦したジョン・サーティースが獲得したが、翌1967年 - 1971年までマクラーレンで参戦したブルース・マクラーレンとデニス・ハルムが各シーズン毎にチャンピオンを獲るマクラーレン黄金期を構築した。二人はパパイアオレンジ色のワークスカラーで独走劇を重ねて「ブルース&デニー・ショー」と呼ばれ、1969年には二人で11戦連勝という記録を打ち立てた。またプライベーターにもマシンを供給したことから、一時は参戦台数の半数以上をマクラーレンが占め、コンストラクターとして1968年第1戦から1970年第6戦まで23連勝という記録を残し、F1より早い時期に名門チームとしての地位を固めた。
また新技術も多数投入されており、石油王ジム・ホール率いるシャパラルは、オートマチックトランスミッション/ハイマウント・可動式リアウイング(ペダルで調節可能)/ファン・カー等の斬新な技術を採用したマシンで参戦。1964年 - 1965年の北米中のスポーツカーレースでは連戦連勝を挙げるが、Can-Amシリーズでは1966年第4戦での優勝のみであった。しかしシャパラルが実用化した斬新な技術は、F1など他のカテゴリのマシンにも大きな影響を与えた。
1969年にはNASCAR創設者ビル・フランスの援助を得てIMSAが誕生している。
1970年代
1970年にブルース・マクラーレンがテスト中事故死というショッキングな出来事が発生するが、「ブルースのために」という合言葉でデニス・ハルムがチャンピオンを獲得する。
1972年からスポーツカー世界選手権の規定変更をうけ、耐久レースの雄ポルシェがCan-Amに本格参戦を開始する。ポルシェは、ターボチャージャーを搭載した水平対向12気筒DOHCの5,000ccエンジン(公称900PS)を搭載したポルシェ・917/10Kで、一方マクラーレンはサイドラジエターを採用したマクラーレン・M20にシボレーのOHV V8 NA 8,400cc(公称740PS)を搭載して参戦した。パワーの差はさすがに常勝マクラーレンといえども対抗できずに、ポルシェが全9戦中6勝を挙げチャンピオンを獲得し、マクラーレンのワークス活動を中止に追い込んだ。
1973年には、ポルシェが5,400ccのエンジン(公称1,100PS)を搭載したポルシェ・917/30Kを投入し、前年度のポルシェ・917/10Kと合わせて全8戦とも勝利を納めた。このポルシェ・917/30Kは、当時「史上最速のレーシングカー」と呼ばれ開幕2戦は落としたが残りで6連勝でチャンピオンを獲得した。またポルシェ・917/30Kは、1975年夏にタラテガで平均355km/hというクローズドサーキット最速記録を樹立した。
1974年には、FIAが燃費規制を導入する方針を示したことでポルシェは参戦意欲を失い、ワークス活動から撤退する。シリーズはオイルショックの余波を受け全5戦に縮小された。シャドウはDN4で全5戦中4勝を挙げチャンピオンを獲得する。しかし結局1975年、シリーズ自体が休止に追い込まれた。
1977年に、従来の規定の2座席レーシングカーのマシンと新規定の「中古F5000のシャーシにスポーツカーカウルを被せたフォーミュラ・リブレ」の混走レースとして復活する。クラスは、5,000ccと2,000ccの2クラスが設定された。2,000ccのクラスでは、新規定の「中古F2のシャーシにスポーツカーカウルを被せたフォーミュラ・リブレ」と従来の2座席レーシングカーの混走レースであった。新規定のフォーミュラ・リブレのフロントカウルは、ベースとなったフォーミュラカーのフロントカウルをそのまま使用するマシンが多かった。1970年代のチャンピオンは、F1経験者のパトリック・タンベイ、アラン・ジョーンズ、ジャッキー・イクスが新規定のフォーミュラ・リブレで獲得した。しかしアメリカでのローカルルールによるレースとなり参加者が伸びずにシリーズは終息した。
1980年代
IMSAは従来、FIAで規定されていたグループ2およびグループ4の量産ツーリングカー・量産GTのような、量産車をベースとしたマシンによるレースであったが、1981年にGTの上位クラスとして新規にGTP(グランドツーリング・プロトタイプ)を設置。内容は、FIAのグループC規定(C1)を先取りするクローズドボディの車両。C1との違いは、燃費規制がない/最低車両重量が100kg軽い/ガソリンタンク容量が20リッター多い120リッター/ツインターボの禁止の4点であった。1985年からは、キャメルライトと呼ばれる軽量、低馬力のプスポーツカーカテゴリが導入された。
このGTPはグループC人気の高まりも受けて高い人気を誇り、多数のメーカーの参入を促した。
1990年代
隆盛を誇ったGTPも、1990年代前半にコストの上昇とメーカー系ワークス・チームの離脱により、シリーズへの出場チームが減少した。そこでIMSAは、1993年にWSC(ワールド・スポーツカー)と呼ばれる新カテゴリを導入し、翌1994年からGTPとキャメルライトをWSCで置き換える施策を実施した。WSC用車両はオープントップの車両で、量産車用のエンジンをチューニングしたものを搭載しコスト削減を図った(GTPはレース専用エンジンを搭載)。シーズン開幕当初は格下のGTSクラスより順位が悪かったが、信頼性の確保とともにGTSクラスでのGTPエンジンの使用禁止というレギュレーション改正で本領を発揮するようになった。
しかし1998年にシリーズのありかたをめぐる論争により一旦IMSAは解散する。シリーズ自体はALMSとしてレギュレーションの変更はあるものの継続されている。1998年末にはアメリカからFRのプロトタイプレーシングカーでル・マン24時間レースに参戦していたドン・パノスがIMSAを買収し、1999年からル・マン24時間レースを主催するフランス西部自動車クラブ(ACO)規定によりアメリカン・ル・マン・シリーズを発足させた。クラスはスポーツカーのLMP1/LMP2とFIA GT選手権のGT1/GT2 (グランドツーリングカー) の4クラス。各クラスのチャンピオンには、翌年のル・マン24時間レース参戦へのシード権を保証している。
2000年代
1999年に、NASCARのフランス家の支援を得て、グランダム・ロード・レーシングが発足。NASCARの成功にヒントを得て、パイプフレーム・市販エンジンの安価な規定であるDP(デイトナ・プロトタイプ)を採用したロレックス・スポーツカー選手権が開幕した。このグランダムはデイトナ24時間を擁していたため、コストの安価さも相まってALMSの強大なライバルに成長。しかしこのIMSAとグランダムの分裂は、アメリカの耐久レース人気に悪影響を及ぼした。
2010年代
2014年に両シリーズは歩み寄り、USCCとして心機一転、新たなスタートを切る。統合後しばらくは移行期間ということもあり、欧州組の参戦は激減した。しかし2017年からDPを廃止し、LMP2車両をベースとするDPi(デイトナ・プロトタイプ・インターナショナル)規定に移行すると再び欧州組は爆発的に増加。デイトナ24時間はFIA 世界耐久選手権(WEC)・ELMSの有力チームやF1ドライバーも多数押し寄せるビッグイベントとなった。
日本
日本のサーキットレース文化は、フォーミュラカーよりもスポーツカーで発展してきた部分が強い。1960年代の日本グランプリ、1970年代の富士GC、1980年代の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)と、いずれも日本の四輪レーシング界を牽引して来た。そしてその結晶がマツダのル・マン24時間レース制覇、日産・トヨタのデイトナ24時間レース制覇と言える。しかし1993年以降はスポーツカーの世界耐久シリーズは消滅してしまい、唯一鈴鹿1000kmだけが残されているといった状態になっていた。その鈴鹿1000kmもその後2006年からSUPER GTのシリーズの1戦に、そして2018年からは鈴鹿10時間としてのインターコンチネンタルGTチャレンジに組み込まれた。2006年から開始された全日本スポーツカー耐久選手権(JLMC)も2007年限りで消滅してしまい、現在の日本には全日本格のスポーツカーのシリーズは存在していない。ただし国際シリーズの一戦として、2012年からWECの富士6時間レースと、アジアン・ル・マン・シリーズの一戦(2017年は富士)が開催されている。海外ではWECのLMP1クラスにトヨタ、IMSAではPクラスに日産、マツダ、アキュラの現地法人が参戦している。
1960年代
日本メーカーが開発し、公のレースに出場した初のスポーツカーは、1965年にプリンス自動車工業が開発したR380である。前年の第2回日本グランプリにおいて、スカイラインGT(S54A-I型)でポルシェ・904に敗れたプリンス技術陣が、「打倒ポルシェ」を合言葉に生み出したマシンである。ブラバムBT8を購入し、徹底的に研究し完成させた。2リッター直列6気筒24バルブエンジンGR8型をミッドシップに搭載する。1965年は日本グランプリが中止になったため実戦デビューは翌年に持ち越しとなった。1966年に開催された第3回日本グランプリでプリンスR380は砂子義一の手により、ポルシェ・906を破り総合優勝を果たす。プリンスと日産が合併したため翌年の第4回日本グランプリには日産R380として参加するも、元プリンス・ワークスの生沢徹が駆るポルシェ・906に敗れた。
翌1968年の'68日本グランプリでは大排気量マシンの参加も可能となり、日産はシボレー製の5.5リッターエンジンを積む「怪鳥」R381、前年参加するマシンがなく欠場したトヨタ自動車工業は3リッターV型8気筒エンジンを積むトヨタ・7でエントリー。この他日本初の本格的プライベートレーシングチーム「タキ・レーシング」がローラT70、ポルシェ・910を持ちこみ、「TNT」対決と話題になった。結果は北野元が駆る日産R381の優勝。観衆は主催者発表で11万人、NET(現テレビ朝日)による生中継の視聴率は19%にも達した。
翌1969年にはグランプリはさらに加熱し、ディフェンディングチャンピオンの日産は自社製6リッターV型12気筒GR-Xエンジンを搭載するR382、トヨタはエンジン排気量を5リッターに拡大した2代目トヨタ7をそれぞれエントリー。タキ・レーシングはワークスのポルシェ・917をスタッフ・ドライバーごと招聘した。この他ダイハツ、いすゞ、日野もワークス参戦。そして12万人の観衆を集めた決勝レースを制したのは黒澤元治駆る日産R382であった。スポーツカーで行われたこの年の日本グランプリは、日本モータースポーツ界の一つの頂点であった。
1970年代
1970年の日本グランプリは、5リッターV型8気筒ターボエンジンを搭載するニュー・トヨタ7と、日産のニューマシン・R383の激突が予想され、さらに白熱したレースが期待されていた。ところが、6月の「富士300マイル」でR382が1-2フィニッシュを遂げた直後、日産は突如1970年日本グランプリの参戦中止を発表する。表向きの理由は公害対策に専念するため、当初の目的を達成した大排気量スポーツカーの開発を中止するというもの。この後相手をなくしたトヨタも日産を追うように欠場を表明し、同年の日本グランプリは主催者の日本自動車連盟(JAF)より中止が発表されることになる。
戦う相手をなくしたトヨタと日産は共に世界に目を向け、トヨタは当時北米で最高の人気を誇ったCan-Amへ、トヨタ・7ターボで挑戦することを決意する。しかしそのことが役員会で正式決定した8月26日、鈴鹿サーキットで7ターボをテスト中の川合稔が事故死し、トヨタはこれを受けCan-Am挑戦と7ターボの開発を中止。また日産もCan-Am参戦の可能性を探るべくR382をアメリカへと送るが、結局レースに参戦することは一度もなかった。ここにトヨタ・日産のビッグマシン対決を中心としたスポーツカーレースの時代は突如完全に終焉を迎えることになった。トヨタ・日産のスポーツカーがサーキットに戻ってくるのはこれから10年以上後のことである。
本来日本グランプリの前哨戦となるはずだった9月の「富士インター200マイル」には、イタリアから最新型フェラーリ・512Sが招聘され、優勝を遂げる。興行的にもまずまずの成功を収めた。これが伏線となり、翌1971年、富士スピードウェイでは日本グランプリに代わる看板レースとしてスポーツカーレースによるシリーズ戦を開始する。これが富士グランチャンピオンレース(通称富士GC、グラチャン)である。メーカー同士の激突から、プライベートレーシングチームがスポンサーを募り、マシンを購入し、ドライバーと契約し、賞金を得ると言う、今日では当たり前のレーシングビジネスがこの時スタートしたのである。シリーズは全5戦が組まれ、当初は7リッターシボレーエンジンを搭載するマクラーレン・M12から3リッターのポルシェ・908、GTクラスの日産・フェアレディZまでが混走するレースであった。初年度はマクラーレンの酒井正がチャンピオンになったが、雨の第2戦「富士グラン300マイル」ではGTクラスのフェアレディZが優勝する波乱もあった。
翌1972年は若干規則が変更される。マクラーレン・M12やポルシェ・908のような大排気量車も参加は可能だが、チャンピオンシップは2リッター以下のスポーツカーのみに与えられることになったのである。シェブロンB21P、ローラT290、GRD-S72と個性的なスポーツカーが競い合う激戦の中、元トヨタワークスの鮒子田寛(シェブロンB21P/フォード)がチャンピオンに輝いた。1973年からは2リッターまでとエンジン規定は統一されたが、それでも毎レースエントリーは30台を超え、また観客も1レース平均5万人を超えるなど、完全に日本の看板レースに成長していた。フォーミュラカーによる全日本F2000選手権(GCは全日本タイトルはかかっていない)もこの年スタートしてはいたが、日本のレースの中心はフォーミュラでなく依然スポーツカーだったのである。しかし隆盛を極めた富士GCも、1973年末のオイルショック、そして1974年6月の「富士グラン300キロ」での多重クラッシュに伴う鈴木誠一と風戸裕の死亡事故で、その勢いは急速に衰えていくことになる。
日本のモータースポーツの元気がなくなった1970年代後半だが、紫電、ノバ・エンジニアリングという日本のコンストラクター製のスポーツカーも登場した。エンジンもBMWとともにマツダのロータリーエンジンが活躍した。1977年からは富士1000km、500マイル、500kmの3戦からなる耐久シリーズ「富士ロングディスタンスシリーズ」(富士LD)がスタートし、GCマシンがGTクラスのマシンと混走した。またアルピーヌ・ルノーA441なども登場し優勝している。
しかし1979年、Can-Amに範をとり富士GCはシングルシーター化する。実際には本家Can-Amと交流もないまま、富士GCはF2の亜流と化し個性をなくし、10年後の1989年にはシリーズが終焉を迎えることとなる。
1970年代のスポーツカーシーンのもう一つの特徴が、シグマオートモーティブ(後のサード)、童夢と言ったプライベート・コンストラクターによるル・マン24時間レース参戦である。1971年に鈴木板金(後ベルコ)がエントリーするも参戦できず、1973年、元トヨタ第7技術部の加藤眞率いるシグマオートモーティブが自製マシン、シグマ・MC73/マツダで日本チーム初のル・マン参戦を果たした。シグマの挑戦は1974年のシグマ・MC74/マツダ、1975年のシグマ・MC75/トヨタと3年続くが完走は果たせなかった[注釈 3]。1979年は林みのる率いる京都の童夢が、童夢・零RL/フォード2台で参戦。シグマ、童夢、そして当初はプロトタイプでなくマツダ・RX-7の改造車で参加したマツダオート東京(後のマツダスピード)のル・マン挑戦が、1980年代グループCによるメーカーワークスの挑戦へとつながっていくことになる。
1980年代
1976年に世界メーカー選手権に導入された市販車大改造のグループ5規定によるレースが、日本でも1979年から1983年にかけて富士GCの前座「富士スーパーシルエット」(SS)として行われるようになった。トヨタはドイツで活躍していたシュニッツァーチューンのA20セリカ・ターボを逆輸入したり、童夢製作のA40セリカを投入。日産は当初710型やA10型のバイオレット・ターボが参戦。後にS110シルビア・ガゼール、910ブルーバード、R30スカイラインを投入し、その迫力あるスタイル・走りからレース自体もおおいに人気を集めた。このころになると、トヨタ・日産も徐々にモータースポーツ活動を再開するようになってきた。
1982年、FIAは二座席レーシングカー (1976年以降のグループ6) の後継カテゴリーとしてクローズドボディのグループC (スポーツカー) 規定を導入する。このグループCによって争われるWECが1982年から日本でも開催されるようになった。このWEC日本大会(WEC-JAPAN)に、日本初のグループCカートムス童夢・セリカCが参戦し、5位に入賞する。
翌1983年、日本でもグループC規定によるシリーズ「全日本耐久選手権」がスタートした。
1990年代
1990年にはようやくJSPCで国産マシン(日産・R90CP)がチャンピオンを獲得する。この頃のJSPCは絶大な人気を誇り、(シリーズ最大人気の)WEC-JAPANが消滅したにも関わらず1レース平均5万人(主催者発表)を超える動員を記録していた。しかし一方でワークス対決が激化したことにより国産メーカーは台数を絞り、1986年当時は12台参加したトヨタ・日産のグループCカーは1990年には6台に半減していた。とはいえポルシェ・962が多数市場に出回り、またバブル景気の影響で多くの企業がスポンサーに付きポルシェの台数は最大時8台にまで増加し、Cカーの総参加台数は減少しなかった。しかしCカー自体が速く進化しすぎたため、耐久レースに欠かせないGTクラスのマシンやRS(単座の小型スポーツカー)は1990年頃には淘汰されてしまい、1,000kmレースでもエントリーが20台を切るような状況になっていた。
翌1991年もJSPCはトヨタ・日産の対決に沸くが、ポルシェ・962の戦闘力がなくなり、また景気後退もあり撤退するチームも出てきた。参加台数も平均15台にまで減ってしまう。1992年にはポルシェを使うプライベーターは完全に消滅し、1レース平均出走台数は10台にまで激減してしまう。最終戦MINE500kmには、トヨタ(TS010)、日産(NP35)、マツダ(MXR-01)の新世代Cカー「カテゴリー1」(F1と同規定の3.5リッター NAエンジン搭載車)が出揃うが、それが最初で最後になった。JSPCはこの年で事実上終焉を迎えることとなる(マツダはこの年限りでレースから撤退)。
JAFは翌年以降もJSPCを継続させるべく新たに始まるN3規定の全日本GT選手権と混走させる耐久シリーズ「インター・サーキット・リーグ」(ICL)構想を発表する。しかし意に反しエントリーは集まらず、結局開催された耐久レースは鈴鹿1000km1戦のみ。日産2台と、スパイス・アキュラの計3台で事実上日本最後のCカーレースとなった(他GTクラスやRSが多数)。翌1994年、ル・マンで2位になったサードのトヨタ・94C-V(Cカーを大幅に改造したLMP1規定)が鈴鹿1000kmに参戦。ル・マン優勝のダウアー962LM・ポルシェ(クラスはGT1だが事実上のプロトタイプ)が来日し、ル・マンの対決の再現になるはずだったが、直前に来日がキャンセル。サードの94C-Vはライバル不在のレースに出走するが、トラブルでリタイヤ。このレースをもって日本からスポーツカーのレースが暫く中断することになる。
SWC崩壊(ヨーロッパの項参照)後、鈴鹿1000kmもシリーズの1戦に加わっていたGTのグローバル耐久レース「BPR」が、1997年より「FIA GT選手権」に昇格し、鈴鹿もその1戦に加わった。この選手権にはグランドツーリング・スポーツカーと呼ばれるGT1マシン、メルセデスCLK-GTR、ポルシェ911GT1、マクラーレン・F1-GTR LMがワークス体制で参戦し、鈴鹿1000kmにも来日した。翌1998年も発展型メルセデスCLK-LMが来日。この時のGT1は、Cカー時代と遜色ないタイムで1000kmを走破している。この時期ル・マンに参戦していたトヨタ・日産は、それぞれトヨタ・GT-One TS020、日産・R390と言うGT1マシン(ル・マンのACO規定とFIA規定は微妙に異なる)を保有していたが、諸般の事情でこの母国ラウンドには参戦できなかった。JSPCで見慣れたマシンがル・マンに参戦したCカー時代と異なり、この時期の国産ル・マンチャレンジャーを日本のファンは目の当たりにできなかった。
1999年には鈴鹿1000kmはFIA-GTから外れるが、富士スピードウェイで開設35周年と銘打つ「ル・マン富士1000km」が開催される。その名の通りル・マン規定で行われる耐久レースである。富士では1992年以来となるスポーツカーの耐久レースでもある。当初アウディ、BMWのワークス・カーの参戦も期待されたが、同日にALMSが開催されたため実現しなかった。しかしトヨタのTS020、日産・R391が参戦。日本のファンはこのレースで初めてこのル・マン参戦車を見ることができたのである。この7年ぶりのTN対決は日産に軍配が上がる。そしてこのレース以降、トヨタ・日産ともスポーツカーのレース活動は10年以上休止することとなった。
2000年代
2000年代に入ると、GTカーによって争われる全日本GT選手権(2005年よりSUPER GT)が大きな盛り上がりを見せる一方、スポーツカーが出場したレースは、ル・マンに参戦したチーム郷のアウディ・R8がエントリーした2002年の鈴鹿1000kmのみであった(リタイヤに終わる)。その鈴鹿1000kmが2006年よりSUPER GTのシリーズ戦に組み込まれたことになり、日本におけるスポーツカーが出場可能のレースは完全消滅してしまう可能性も生まれた。
2006年より、ル・マン24時間レースの主催者であるACOの公認を受けるシリーズとして全日本スポーツカー耐久選手権(JLMC)がスタートする。当初スポーツカーの参戦は一ツ山レーシングが走らせるザイテック、M-TECが走らせるクラージュの2台のみにとどまっていたが、2008年以降は同シリーズのチャンピオンに翌年のル・マンの参戦枠が無条件で与えられることになっているため、参戦するチームの増加が期待されていた。しかし、翌2007年以降も参加チームの増加とはならず、また興行的にも苦戦を強いられたため、同年をもってシリーズは終了、日本におけるスポーツカーレースは再び消滅することとなった。2009年にはACOが自ら主催となりアジアン・ル・マン・シリーズを立ち上げ岡山国際サーキットにてレースを行い、スポーツカーによるレースの命脈を辛うじて繋いだ。
日本におけるレース開催は冬の時代に入ってしまった2000年代のスポーツカーレースだが、ル・マン24時間等に参加するチームは相変わらず多かった。童夢は2001年、S101で15年ぶりにスポーツカーレースに復帰、FIA-SCCやル・マンに参戦する。メーカーの支援のない純粋なプライベート参戦のため、ル・マンにおける最高位は2003年、2004年の6位に留まる。2008年からはクローズド・ボディのS102を投入し優勝を目指していたが、リーマン・ショック以降の景気低迷の影響を受けS102の参戦は2008年のみに終わった。1997年から参戦を開始したチーム郷は、2004年にアウディ・R8で日本のプライベーターとして初めてル・マンを制覇している。2009年にはポルシェ・RSスパイダーでル・マンに参戦している。また東海大学(林義正研究室)が、大学としては世界初のプロジェクトとして2008年のル・マンに参戦した。マシンは東海大学で製作したエンジン(YGK)をクラージュ・オレカ製シャシーに搭載したものであった。
2010年代
2012年、長らくスポーツカーレースから遠ざかっていたトヨタが、FIA世界耐久選手権(WEC)にエントリーすることを正式に発表した[1]。クローズド・ボディにハイブリッドシステムを搭載したTS030 HYBRIDで、WEC第3戦ル・マン24時間レースに出場、しかし結果は全車リタイアに終わった。
トヨタはル・マン以降のWECにフル参戦し、参戦初年度ながら3勝をあげる健闘を見せた。また同年10月には、富士としては1988年のWEC-JAPAN以来、日本としても1992年SWC鈴鹿1000km以来20年ぶりとなるスポーツカー耐久の世界選手権が富士6時間として開催され、トヨタが優勝を飾っている。トヨタは2017年までに、富士で2015年を除いて全て勝利するという圧倒的な強さを見せている。2014年にはアウディ・ポルシェを打ち破って、日本メーカーとして初めてスポーツカー耐久の世界選手権でドライバー・マニュファクチャラーズタイトルを獲得した。トヨタは2018年現在もWECに参戦中である。
日産は2012年にドン・パノスとの提携で開発したデルタウィングを初め、ZEOD RC、GT-R LM NISMOといった、従来の発想に囚われない斬新なマシンを数多く開発したが、完走はほとんどできないまま終わっている。一方でLMP2ではV8エンジンのVK45が高い評価を受け、2016年までほぼ日産のワンメイク状態となり、2015年に誕生したLMP3でも同エンジンの独占供給を行っている。
プライベーターでは、童夢が2008年以来スポーツカーの活動を再開した。S102.5やS103といったLMP1マシンで、ペスカロロやストラッカが採用してエントリーしたが目立った成績は残せないまま姿を消した。また2015年にはグループC時代に活躍したSARDも欧州のチーム・モランドとジョイントしてLMP2にエントリーしたが、問題が生じて一年限りの名前だけのエントリーとなった。
注釈
^ 公道レースではラリーのようにナビゲーターが同乗することもあったが、サーキットレースではドライバーのみが乗車するため、基本的に単座(モノポスト)で助手席は不要となる。このため、車体の片側に運転席のみがあり、反対側はボディー外板に覆われた車体も存在する。また、プロトタイプ・ライツのように単座のプロトタイプカーも存在する
^ かつての富士GCやUSCCの一部イベント、アジアン・ル・マン・スプリントカップのように、スプリントレースも存在する。
^ 1974年は24時間走ったが周回数が少なく正式な完走と認められず。
出典
- ^ abcde『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.27-154「ルマン24時間レースの歴史」。
^ ル・マン24時間の変遷をたどる(3/5)
参考文献
- 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』グランプリ出版 ISBN 4-87687-161-2
- 黒井尚志『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』集英社 ISBN 4-08-780158-6
関連項目
- Sports car racing
- モータースポーツ
- ル・マン24時間レース
- デイトナ24時間レース
- FIA 世界耐久選手権
- スポーツカー世界選手権
- グループC
- 二座席レーシングカー
- IMSA
- インターコンチネンタル・ル・マン・カップ
- アメリカン・ル・マン・シリーズ
- ルマン・シリーズ
- アジアン・ル・マン・シリーズ
- 全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権
- 全日本スポーツカー耐久選手権