国際モータースポーツ協会







アメリカン・ル・マン・シリーズ(2007年)






国際モータースポーツ協会英: International Motor Sports Association)は、米国の自動車レース統括団体である。略称はIMSA(イムサ)。




目次






  • 1 概要


  • 2 Camel GT 時代


  • 3 GTP時代


  • 4 ポストGTPから終焉


  • 5 ALMS時代


  • 6 USCC時代


  • 7 脚注


  • 8 外部リンク





概要


SCCA(スポーツ・カー・クラブ・オブ・アメリカ[1])の元従業員のジョン・ビショップ[2]とペギー・ビショップ[3]により、NASCARのビル・フランス[4]の援助を受けて、1969年に創設された。


デイトナ24時間やセブリング12時間をメインに据えるプロトタイプカーレースを長年主催し、アメリカの耐久レース文化を守ってきた。またCTSC(コンチネンタル・タイヤ・スポーツカー・チャレンジ)やプロトタイプ・ライツのようなエントリーカテゴリなども開催している。



Camel GT 時代





ポルシェ・917/10


シリーズ発足年の1971年は6戦が行われた。当初の車両規定は国際自動車連盟(FIA)で規定されていたグループ2およびグループ4同様のものであったが、やがてGTO・GTU・TO・TUの4つに分割された。最初のチャンピオンは、ポルシェ・914/6 GTUのピーター・H・グレッグとハーレイ・ヘイウッドだった。 IMSAの初期は、ポルシェ・911 カレラRSRとシボレー・コルベットが勝利することがほとんどであった。翌年キャメルが冠スポンサーとなり、シリーズは「キャメルGT」と呼ばれるようになった。


1975年に、GTOでポルシェの優位を打破するために「AAGT」(オール・アメリカン・グランドツーリング)と呼ばれる新しいカテゴリを導入した。 しかし、ボブ・シャープ・レーシングチームが抜け穴を使用して米国産のダットサン280ZX(日産・フェアレディZ)に、日産・プレジデントのV8エンジンを搭載したため、このカテゴリは(後の1981年の時と同様に)論争を巻き起こした。 しかしこの日産車は成功を収めることはなく、GTPカテゴリ創設時には時代遅れになっていた。「TU」は「TO」とともに、翌年から「RS」カテゴリに置き換えるために1976年に廃止されることとなった。


ターボチャージャーは、1977年の中頃までは認可されていなかったが、アル・ホルバートの優勝車であり、2つのタイトルをもたらしたシボレー・モンツァの検査の後、ポルシェのモータースポーツ部門の抗議により、認可されることとなった。 1977年以前からポルシェを使用していたプライベーターは、時代遅れの911カレラRSR3.0で間に合わせなければならず、時には辛うじて勝利することもあったが、他のAAGT出場車との間で苦戦を強いられることとなった。


ターボ認可の結果、「GTX」(グランドツーリング・エクスペリメンタル:FIAの定めるグループ5を基にしたもの)として知られている新しい最上位のクラスはポルシェ・935が絶対的な優勢となった。 935はシリーズで最も成功した車となった。 70年代の最も成功したドライバーは1971、73年、74年、75年、78年、および79年にチャンピオンとなったピーター・グレッグだった。1982年にジョン・ポールとジョン・ポール・ジュニア親子が改良型935でシーズンを席巻すると、シーズン終了後、主催者側はツインターボを禁止した。


勝利を経験したことがあるメーカーは他にマツダがある。マツダRX-2とRX-3により幾度か成功した後に、RX-7はIMSAデイトナ24時間レースで1982年から10年連続でクラス優勝を飾り、1980年から1987年まで毎年 IMSA Grand Touring Under Two Liter(GTU:グランドツーリング・2リッター以下クラス)選手権でシリーズチャンピオン獲得を果たした。 RX-7は、IMSAレースにおいて同クラスのいかなる自動車よりも多く勝ち続け、1990年9月2日に100勝目を挙げた。


また、トヨタもガーニーフラップの考案者であるダン・ガーニーのオール・アメリカン・レーサーズとジョイントし、1987年にセリカでGTOクラスのタイトルを獲得した。



GTP時代





トヨタ・イーグル MkⅢ


1981年には、新しいプロトタイプカテゴリー、「GTP」が登場した。この車は世界耐久選手権(WEC)で導入された新しいグループC規定と類似したものであるが、2つのカテゴリの主な違いは、燃料使用総量が規制されたグループCと異なり、GTPは燃費について規制が無かったことである。レーシングドライバーのデレック・ベルは「レースファンはエコランを見に来ているのではない」と強調した[5]。他にも、GTPはガソリンタンク容量が20リッター多い120リッターであったことや、ツインターボが禁止されていたことなどがグループC(C1)と異なる。


ブライアン・レッドマンは1981年にGTP車両のローラT600をドライブしてチャンピオンとなった。また、マーチ・エンジニアリングもプロトタイプカーを出走させ、1983年にアル・ホルバートが、翌年にランディ・ラニエがチャンピオンとなった。1984年にはポルシェ・962が導入され、1985年から1987年までシリーズを支配した。
この当時のIMSA-GTPシリーズには、ポルシェのほか、ザクスピード製作のフォード・プローブGTP、グループ44製作のジャガー・XJR-7、マーチ製作のBMW-GTP、ローラ製作のコルベットGTP(T610)、日産GTP(T810)が参戦し、世界耐久選手権を上回る盛況を誇った。


1988年、WSPCを制覇したTWRジャガーが参戦、IMSA-GTPは益々激戦となる。しかしポルシェに代わり王座に就いたのは、エレクトラモーティブが走らせる日産・GTP ZX-Tであった。IMSA新記録の8連勝を含む参戦12戦中9勝の圧倒的強さで、ジェフ・ブラバムがドライバーズタイトルを獲得する。しかしクラシック耐久のデイトナ24時間、セブリング12時間への欠場、および台数のハンデのため、メイクス部門はポルシェにタイトルを死守される。
しかし翌1989年以降3年間はジャガー、ポルシェ、およびトヨタからの追撃をかわし、日産がシリーズを両部門とも制覇する。


一方でトヨタは1991年終盤にイーグルMkIIIを投入。このマシンは高い戦闘力を発揮して1992年にダブルタイトルを獲得、1993年にはデイトナ含め全勝でタイトルを連覇した。しかしFIAがスポーツカー選手権をF1振興を目的に軽量シャシー(ハイコストなカーボン前提)に3.5naエンジン化(F1参画前提)を発表、これがコストはもちろん、各メーカーのアイデンティティの象徴である自社製エンジンが使えない、ということで他のメーカー次々に撤退。もちろんIMSAにも飛び火し、1993年でGTPカテゴリは終焉を迎えた。スポーツカーレースの醍醐味は、色々なエンジン・マシンがそれぞれの特徴を生かして同じカテゴリーで戦う姿であり、ワンメイク化ではない。


GTPのクラスには、他にも多くのメーカーが存在していた。例えばURD、スパイス・エンジニアリング、イントレピッドまたはゲブハートなどがあり、さらに92年からはGTOクラスからステップアップした北米マツダがあった。 GTP車と共に、1985年には「キャメルライト」と呼ばれる軽量、低馬力のプロトタイプカテゴリが導入された。 アルゴ・レーシングカーズはスパイス・エンジニアリングを抑えて最初のライトクラスのチャンピオンとなった。 よく知られているものには、スパイス、タイガ・レースカーズ、ロイヤル、アルバ、ファブカー、アルゴ、クッズがあった。



ポストGTPから終焉




ポルシェ・LMP1-98


コストの上昇とメーカー系ワークス・チームの離脱により、シリーズへの出場チームが減少したのに伴い、IMSAは1993年にWSC(ワールド・スポーツカー)と呼ばれる新カテゴリを導入し、翌年よりGTPクラスおよび軽量クラスのクローズドボディの車両を置き換えることとした。WSC用車両はオープントップの車両で、GTP用車両がレース専用に製作されたエンジンを搭載するのに対して、量産車用のエンジンをチューニングしたものを搭載した。実際の参加マシンは、IMSAライトカーをオープンにし、フラットボトムにしてWSC規定に合わせたスパイス、クッズなどが中心で、思惑通り低コストではあったが新鮮味にかける幕開けとなった。


WSC車はブレント・オニールの単独エントリでマイアミグランプリにおいてデビューを飾り、完走車のうち最後尾でフィニッシュした。セブリング12時間レースを欠場した後、残りのシーズンは4台未満の車による非選手権ラウンドに出場することとなった。


1994年に、冠スポンサーがキャメルからエクソン(現・エクソンモービル)に替わることとなった。WSCが最上位カテゴリとして引き継ぐことになってはいたものの、その信頼性がデイトナの開幕戦で試されることになった。8台のWSC車が競う中、2台がフロントロウからスタートしたにもかかわらず、WSC車はGTの陰に隠れ、最高位は9位に終わり、他に2台が完走したに過ぎなかった。 WSC車が最初に表彰台に上がったのはセブリングにおいてであり、この時はデイトナで優勝したGTSの日産300ZXに次いで2位と3位の成績を収めた。このため、GTSカテゴリにおいて、GTP用エンジンの使用を禁止するという規則変更が行われた。 WSCロードアトランタ戦において、新しいフェラーリ・333SPがマスコミのファンファーレに迎えられてデビューを飾り、デビューレースで優勝した。 この後フェラーリはすべてのラウンドで表彰台の常連になったにもかかわらず、4ポイント差でオールズモビルにマニュファクチャラーズタイトルを奪われた。


1995年、高価なフェラーリの新しいライバルとして、低コストと汎用性の高いライリー&スコットMkIIIが登場した。 あえて時代遅れに感じる角パイプスペースフレームシャシーとしのは、アメリカンレース界ではポピュラーなフレームだった為で、価格の安さとメンテナンス性、純アメリカ製WSC規定初マシンであること、そして何よりその速さで一気に最大勢力となった。フェラーリはそのカテゴリにおいてセブリングで総合優勝を果たし、メイクスおよびドライバーズの両タイトルを獲得した。 フェラーリとライリー&スコットは1995年から1998年にIMSAが終焉を迎えるまでの間このシリーズを支配していた。


1989年にコネチカットから本部を移動させてきたタンパのマイク・コーンに対し、ビショップとフランスがシリーズを売却した後は、1990年代のシリーズは複数の所有権が交錯した状況、およびPSR(プロフェッショナル・スポーツカー・レーシング)への改名と、変化に富んだものとなった。コーンはレース活動に常時専念するわけではなく、今度はビジネスマンのチャールズ・スレーターに売却した。コーンとスレーターはテレビの視聴率低下を回復させるために気乗りのしない試みをしたが、これにより数百万ドルを失った。 1996年に、スレーターは組織をロベルト・ミュラー(リーボックの元の最高経営責任者)とウォール街の金融業者であるアンディ・エヴァンスに売却した(また、エヴァンスは、インディカーのオーナーであり、Scandia WSCチームのオーナードライバーであった)。PSRへの改名はエヴァンスとMarketing Kurtis Eide社の副会長に責任がある。



ALMS時代




グランダムのデイトナプロトタイプ




ポルシェ・RSスパイダー


チームオーナーから、また管理業務を通じて重圧を受けていたエヴァンスは、1999年以来PSRによる公認を受けてきたパノスのアメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS) への公認をより強固なものにするため、2001年にシリーズをドン・パノスに売却した。ドン・パノスは公認団体の名称をIMSAに戻し、現在はALMSに加えスター・マツダシリーズおよびパノス・GTプロシリーズの正式な認可組織となっている。 ALMSはル・マン24時間レースに基づく規則を使用しているが、2005年には、パノス側とル・マン主催者(フランス西部自動車クラブ、ACO)側との関係は問題が多いものとなった。


1998年にSRRCがアメリカ国内での規則を守ろうとする競争者の集団の主導によりthe Sports Car Club of Americaを巻き込んで結成した独立シリーズは失敗に終わった。次に、NASCARのフランス家からの援助を受けて、1999年にGrand_American_Road_Racing_Association(グランダム)として知られているスポーツカー耐久が始まった。
グランダムは初期のころは苦戦していたが、後に有名なドライバー、広大なフィールド、僅差での勝負、安価な参戦コスト、さらにはデイトナ24時間レースを擁しているなどの点から、IMSAに対する強力なライバルとして存続した。当初のDPマシンは規定上、大変醜いスタイルだったが改定され、コルベットDPに代表されるアイデンティティのある美しいマシンに変貌した。またGTクラスでは北米マツダとジョイントしたスピードソースチームのRX8が活躍。デイトナ24では2度の勝利を勝ち取った。チャンプカーとインディ・レーシング・リーグ(IRL)との分裂状態と同様に、このような分裂状態は観客数、スポンサー、マスコミの報道の劇的な減少を引き起こし、アメリカの耐久レース文化に大きな悪影響を及ぼした。


ALMSとACOの間には関係開始以来いくつかの点において意見の相違が見られ、この紛糾もあってエントリー数が予想よりも少なくなってしまった。 これを受けてALMSは、エントリーを増加させるため、ACOの規則に適合しない車両が2005年シーズンに参戦することを、ACOの意向に反して決定した。これによりポルシェが元々プライベーター向けのカテゴリー設計だったLMP2の有利さに気が付き、トップカテゴリーではなくLMP2でに復帰しもちろん総合優勝を争うマシンとして大活躍した。さらに2006年にはいくつかの新型のシャシーが参戦可能になることが告知されると、ALMSが再興するのではないかという楽観的なムードに包まれたが、結局それほど大きな効果はなく2010年を持ってポルシェはLMP2から撤退した。



USCC時代





リジェ・ジャッド



以後北米のスポーツカーレースシリーズは、ALMSとグランダムという2つのシリーズが併存する状況が長く続いていたが、2012年9月に両シリーズの主催者が2014年からシリーズを統合することで合意[6]、2013年3月、「ユナイテッド・スポーツカー・レーシング」の発足を発表した[7]。同年9月には新名称が「ユナイテッド・スポーツカー・チャンピオンシップ」(以下USCC)となることが発表された[8]。2014年はチュードル、2016年からはウェザーテックがタイトルスポンサーとなっているおり、ユナイテッドを省いて【冠スポンサー】+スポーツカーチャンピオンシップと呼ぶのが一般的である。IMSAのLMP1とグランダムのGXクラスは廃止され、デイトナプロトタイプとLMP2が混走するPクラスが頂点となり、IMSAのLMPC・GTクラスがそれぞれPC・GTLMクラス、IMSAのGTCとグランダムのGTが統合されGTDクラスとなった。


さらに合併に伴いドイツツーリングカー選手権(DTM)とも車両規定を統一することで合意、2015年または2016年にDTMスタイルのレースをUSCCと併催する形で開催する予定であると発表された。これにより予定されているこのレースにDTMや2014年に車両規定統合が決まっているSUPER GTのGT500クラスの車両が参戦できるようになり、最終的には3選手権のグローバル化が図られる見込みであったが、[9]のちにこれらは全て白紙撤回された。


2018年現在はPCクラスが廃止され、プロトタイプのPクラス、LM-GTE車両のGTLMクラス、GT3車両のGTDクラスに分かれており、いずれのクラスもWEC/ル・マンと共通の車両で参戦することが可能になっているため、欧州からの有力チーム・ドライバーの参戦も増加している。またPクラスはデイトナプロトタイプが廃止され、従来のLMP2に加えて、ACOのLMP2のシャーシをベースにメーカーが改造を施すDPi(デイトナ・プロトタイプ・インターナショナル)規定が2017年に導入され、これにキャデラック・日産、マツダが参戦。またアキュラも2018年にDPiに参入し、隆盛の兆しを見せている。



脚注


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  1. ^ 英: Sports Car Club of America


  2. ^ 英: John Bishop


  3. ^ 英: Peggy Bishop


  4. ^ 英: William France Sr.


  5. ^ Prototypes: The History of the Imsa GTP Series


  6. ^ ALMSとグランダムが統合。北米スポーツカー統一へ - オートスポーツ・2012年9月6日


  7. ^ 14年から『ユナイテッド・スポーツカー』誕生へ - オートスポーツ・2013年3月15日


  8. ^ USCRのタイトルスポンサーにチュードル決定 - オートスポーツ・2013年9月17日


  9. ^ DTM、グランダムと合意。北米でDTMレース開催へ,オートスポーツWeb,2013年3月27日



外部リンク


  • 公式サイト(英語)



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